じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 クレタ島の博物館で見た壺。タコが描かれているがタコツボではなさそう。



2015年02月11日(水)


【思ったこと】
150211(水)オックスフォード白熱教室(20)言葉のパラドックス

 昨日の日記で、ゲーデルの不完全性定理に関連して、

●「この命題はウソである」

という言葉のパラドックスに言及された。このことですぐに思いつくのが、

●クレタ人はみなうそつきである、とクレタ人が言った。

という、エピメニデスのパラドックスである。但し、これは、正真正銘のパラドックスであるかどうかは分からないところがある。

 まず、100人のクレタ人全員がが正直者であったとして、それを観察した101人目のクレタ人が「クレタ人はみなうそつきである」と発言したとすると、そのクレタ人は100人の正直者のクレタ人の存在を偽った発言をしているので嘘をついていることになる。これ自体、何も矛盾しない。

 もう1つの可能性は、英語を勉強しているクレタ人が、「All Cretans are liars.」という英文を読み上げた場合。これは単に、ある音声を発したという事実が確認されただけのことで、矛盾も何もない。

 この例がパラドックスになりうるのは、おそらく、自分を含むある集団に適用可能な普遍的法則を言明しようとする時には、自分をも否定するような法則は言明できないというようなことかと思う。同じように、「すべての人は死ぬ」という法則は、誰も言明できない。なぜなら、自分以外のすべての人が地球上から消えたとしても、自分が生きている限りは「すべての人は死ぬ」とは主張できない。そして、自分が死んでしまった時にやっと「すべての人は死ぬ」が実証されることになるが、その時には口を開くことができないので、主張することもできない。もちろん、遺書に「すべての人は死ぬ」と書き残しておいて、それを後からやってきた宇宙人が解読できれば、その言明は正しかったと確認できる。但し、宇宙人はあくまで、「普遍法則」が適用される集団の外の人間である。

 この種の議論は自己言及のパラドックスと呼ばれるそうだ。リンク先の「言語階層」、あるいはそれ以外のいくつかの考え方をとることでパラドックスを回避できる。

 なお、昨日の日記で と書いたが、リンク先には、
 第一不完全性定理の証明においてゲーデルは、大まかに言えば嘘つきのパラドックスを若干修正したバージョン、すなわち「この文は偽である」を「この文は証明不可能である」としたものを使った。これを「ゲーデル文G」と呼ぶ。つまり、公理系 "T" において "G" は真だが、"T" の体系内でそれを証明できない。"G" の真偽と証明可能性の分析は、嘘つきのパラドックスの真偽の分析を形式化したものといえる。
 ゲーデルの不完全性定理の証明に用いられるゲーデル命題は
「この命題は証明できない」
という意味のものであるが、この場合、上記命題が証明できなくとも、それ故に正しいと考えれば、真偽の反転は起きず、パラドックスにもならない。
 ゲーデル文で「証明不可能」を「偽」に置き換えることはできない。なぜなら「Qは偽の式のゲーデル数である」という述語は算術式で表現できないためである。これはアルフレト・タルスキがゲーデルとは独立に発見したもので、タルスキの定義不可能性定理と呼ばれている。
 ジョージ・ブーロスは、嘘つきのパラドックスではなくベリーのパラドックスに基づいて第一不完全性定理の独自の証明を行っている。

 「白熱教室」で「この命題は証明できない」が取り上げられたのは上記のようなことを言いたかったためなのだろう。
 このほか、以上の議論に関連して などがある。大いに勉強になる。

 次回に続く。