じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 57年前の豪徳寺(1958年7月撮影)。豪徳寺は井伊氏の菩提寺であり、井伊直弼の墓があることで知られている。↓の記事参照。もっとも、こちらの記事によれば、世田谷区教委は直弼の墓石の傾きを直すため、平成21年から翌年に改修した際、地表から約1・5bまでに石室がないことを確認。その後、東京工業大が行ったレーダー調査でも地下3b以内に石室は見つからなかったという。井伊直弼がどこに埋葬されているのかは大きな謎となっているそうだ。


2015年03月6日(金)



【思ったこと】
150306(金)銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜

 3月4日放送のNHK 歴史秘話ヒストリア

銃声とともに 桜は散った 〜「桜田門外の変」の謎〜

を録画再生で視た。

 ドラマや映画では、井伊直弼は、籠の外から突き刺されて殺されたように描かれることが多いが、
  • 刀傷を負ったわりにはそれほど出血せずに死亡していた。
  • 井伊直弼は剣の使い手であるはずなのに、なぜ抵抗できなかったのか?
などが謎とされてきた。今回の番組では、井伊直弼に致命傷を負わせたのは、水戸浪士・森五六郎の銃弾であり、腰部から太腿にかけて銃創を負ったことが致命傷になったという証拠がいくつか挙げられていた。また、暗殺に使われた短銃は黒船来航の際にペリーがもたらした短銃のコピーであり、桜の文様などから、黒幕として徳川斉昭の名前が挙げられていた。

 こうしてみると、「桜田門外の変」は、当時の水戸藩によって周到に準備された襲撃であり、忠臣蔵と同様、それに携わった武士たちの達成ストーリーとして見直されてもよかったような気がする。

 ところで、私自身が小学生の頃から疑問に思っていたのは、当時、井伊直弼が開国を推し進めていたのに対して倒幕勢力は尊皇攘夷をスローガンにかかげていたのが、なぜ、倒幕≠攘夷に転じてしまったのかという点であった。ウィキペディアの当該項目では
欧米列強の圧力により修好通商条約に天皇が勅許を出した (1865年(慶応元年)) ことにより「攘夷」と「尊王」は結びつかなくなった。また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきだとする大攘夷論が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という二つの思想の結合をより一層強め、「討幕」という一つの行動目的へと収斂される可能性を生んだ。
と説明されているようだが、そのような「行動目的への収斂」の立役者が誰であったのかはイマイチ分からない。

 でもって、もし、井伊直弼の暗殺が失敗していたら歴史はどう変わっていただろうか?という疑問が残るが、けっきょく、どっちにしても欧米列強の圧力のもとでは開国の流れも、また倒幕の勢力の台頭も変わらなかったであろうから、それほど大きな違いは生まれなかったようにも思える。とはいえ、徳川慶喜の将軍就任には貢献し、結果的に、明治維新の中身を大きく変えたという可能性はある。