じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡大構内で9月7日から運用開始されたももちゃりは、思ったより好調のようだ。1日に数回、図書館南のポートの近くを通過しているが、実際に、学会参加者と思われる学外者や高校生などが利用しているところを見かけたことがあった。また、台数調整のための運搬をしている軽トラも時たま見かける。

2015年10月29日(木)

【思ったこと】
151029(木)『嫌われる勇気』(63)連続する刹那としての人生(1)やはり活動の束のほうがいい

 昨日の続き。今回は、「普通であることの勇気」に続く「人生とは連続する刹那である」について感想・意見を述べることにしたい。ACTの考え方との共通性や違いについても検討してみたいと思う。

 まず、263〜265頁のあたりから要約引用すると、
  1. 高邁なる目標というのは、登山で山頂をめざすようなイメージに喩えることができる。しかし、もし人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまう。山を踏破したところから「本当の人生」が始まるのだとすると、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」になってしまう。【263頁】
  2. 仮に山頂にたどり着けなかったとしたら「仮の人生」のまま人生が中断されてしまう。【264頁】
  3. 人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」として捉えており、人生は、生まれた瞬間からカーブを描いて頂点に達し、やがて死という終点を迎えると考える。しかしこれは人生を物語のように捉える発想であり、フロイト的な原因論にもつながる。人生の大半は「途上」になってしまう。【264頁】
  4. われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しない。【264-265頁】
  5. もしも人生が線であるのなら人生設計も可能であるが、本当の人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に不可能である。【265頁】

 ちなみに、上掲は「普通であることの勇気」→「高邁な目標」という議論の流れの中で述べられていた、本来、山登り的人生観というのは、他者からの注目を求めたり、特別でありたいとする願望とは独立して論じられるべきであろうと思う。本来、山登りは自己完結的であって、他者との比較や他者からの評価などはどうでもいいことである。

 それはそれとして、人生を点の連続と見なすという発想はまことに興味深い。もっとも、点というのは厳密に言えば「位置だけを持ち、長さ・面積・体積をもたない図形 」であるからして、これでは空っぽになってしまう。また、点が連続するというのは、数学的には結局、線であると言っているのと同じことになってしまう。

 この点では、私の唱える活動の束モデルのほうが説得力があるように思える。

 数学的な定義は別としても、「いま、ここに生きる」というのは、瞬間ではありえない。一定の時間と空間から構成される「束」の中で、行動したり、その行動に何らかの結果が随伴したり、さらにそれが強化されたり弱化されたり、時には言語的な反応が派生したりして生きているとしか考えようがないのではないか。但し、その束は、人によって「何十年にもわたる一筋」であったり、何本かに束ねられていて少しずつ入れ替わっていったりする。前者は文字通り「一筋の道」という登山型のライフスタイルであり、後者は私自身に当てはまるような「活動の束」型のライフスタイルということになる。今のところ私自身は、このライフスタイルを変えるつもりはない。

 不定期ながら次回に続く。