じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
岡山大学祭の2日目。文学部西側の駐車場には来場者の車が多数駐められていたが、例年よりは台数は少なく、北西のグラウンドに設けられた臨時駐車場は殆ど使われていない様子であった。 写真上は、時計台前に到着した臨時運行のシャトルバス。写真下は、北福利施設(マスカットユニオン)から時計台方向。大学祭期間中、生協施設は一斉休業していたが、それを知らずに中に入ろうとやってきた人たちを複数見かけた。 |
【思ったこと】 151107(土)100分de名著「実存主義」(1) 11月の「100分de名著」でサルトルの「実存主義とは何か」が取り上げられている。 サルトルの実存主義は私が高校生の頃にはかなり注目された思想であり、私も神田の古本屋の店先に置かれていた関連書を何冊か買ったことがあった。もっとも内容は殆ど理解できず、また、大学院入試の英語問題対策に備えて西洋哲学史の本を読んだ時にも、実存主義に関する出題は無いだろうとヤマをかけており手をつけないままに終わった【←実際、院入試では、中世キリスト教、及びそれ以前の内容が出題されていた】。今回の放送を機会に実存主義のサワリだけでも学び直してみたいとは思っている。 放送第1回ではまず、「実存は本質に先立つ」、すなわち「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存(現実に存在すること)が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない。」という基本的な主張が紹介されていた。 ウィキペディアのリンク先によれば、上掲の考え方は、
もっとも、「生まれてきた意味」について言えば、地球上の生物はみな、個体維持や繁殖といった性質を備えており、動物の場合は、環境との関わりや、随伴性の原理によってコントロールされる存在であると思っている。そういう性質が備わっていない生物は、変異の過程で地球上に誕生してもすぐに死に絶えてしまったはずである。淘汰の過程を経て生き残った存在である以上、我々には本質的な自由というものは存在しない。随伴性の働きをよく理解した上で、そのレールに乗っかって継続的な活動を維持していくほかには道は無いと思っている。 私は、そもそも「本質」なるものが存在するとは思っていない。よく例に挙げられる「ナイフの本質」に関して言えば、ナイフというのはもともと石器時代、「切る」というニーズを満たすために加工されたものに過ぎない。その後、さまざまな用途に応じて、多様なナイフが造られるようになった。また山登りの最中、うっかりナイフを忘れてきたことに気づいた時は、木の枝を加工したり、(持参していれば)スプーンやフォークで代用することもある。いずれも、まず、「切る」とか「果物の皮をむく」といった行動が先にあり、それに役立つオペランダムとして利用されるのがナイフ、またはその代用品ということになる。切ったり皮をむいたりする必要が全く無い時には、ナイフは何の役にも立たず、そのように名付けられた物体が一定の空間を占めているだけとなる。 さらに言えば、固有の存在としての「自分」を前提にした議論は危ういものだと思っている。「自分」というのは存在ではなく、幼少時からの関係反応学習を通じて徐々に獲得された反応や、移動可能な視点のようなものに過ぎない。行動に影響を与える変数が自己と他者で異なっていること、そして人それぞれ固有の体験を重ねていくことによって、自分は固有の存在であると感じるようになるだけのことだろう。 次回に続く(予定)。 |