じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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Googleの類似画像検索で、最近撮影した私自身の顔の類似顔を検索してみた結果。どのお顔もあまり似ていないように見える。↓の記事参照。

2016年01月13日(水)


【思ったこと】
160113(水)美術史研究者の卓越した能力と「絵にも描けない美しさ」

 昼休みに、某美術史研究者の講演を拝聴した。講演でまず驚いたのは、この方の卓越した識別力、記憶力であった。専門分野ではもちろん、都内の電車に某有名歌手が乗っているのを見つけたり、観衆の中に有名芸術家を居たことに気づくなど、数々のエピソードをお持ちとのことであった。

 今述べた卓越した能力は、美術史のご研究にも存分に発揮されているようだ。例えば、ある絵画と酷似した作品が別に見つかったとする。その場合、新しい作品のほうは、模写であったり、何らかの形で原作品を目にする機会がありそこから影響を受けたりした可能性がある。今では類似画像検索などが利用可能であるが、この方の場合は、過去に見た絵画のデータベースがすべて脳におさまっていて、必要に応じて検索できる機能が備わっているようだ。美術史の研究者になるにはこうした能力が必須なのかもしれない。

 ちなみに、今の世の中は作品のオリジナリティが評価され、その分、模写の価値は低く、時には贋作とか盗作として批判されてしまうが、ある時代には、必ずしもそのようには見なされていなかったようである。確かにかつて写真などが存在しなかった時代には、精密な複製を作ることには大きなニーズがあった。また、宗教画では、画家のオリジナリティよりも伝統的な構図が尊重される風潮もあったに違いない。

 講演の終わりのところでは、「絵にも描けない美しさ」と「絵のような美しさ」についての考察があった。日本では「浦島太郎」の歌で、
むかしむかし、浦島は/助けた亀に連れられて、/龍宮城へ来て見れば、/絵にもかけない美しさ。
というように、あまりにも美しすぎるものは「絵にもかけない」と表現される傾向があったという。いっぽう西洋では「絵のような美しさ」というように、本当に美しいものは絵に描けるという考え方があったというような話であったが、詳しい論拠は分からなかった。個人的な考えとしては、
  1. 現実に存在する美(絶景、美人など)
  2. 現実にはありえないほどの美(絵のような美しさ)
  3. あまりにも美しすぎて絵にも描けない
という3段階があるのではないかと思ってみたりするが、専門的な議論についてよく分からない。

 もう1つ、美術作品をできるだけ「見せる」という姿勢と、秘仏のように非公開にしたり、わざと覆いや物の後ろに置いて神秘化するような展示姿勢があるというお話や、西洋において、「受肉」という考えが宗教画に及ぼした影響などのお話もあったが、よく分からないところもあった。