じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
文学部西で丸っこい野鳥を目撃した。ネットで検索した限りではウズラのようにも見える。 |
【思ったこと】 160310(木)行動分析学における自己概念と視点取得(1) 表記のタイトルの紀要論文(4/8締め切り)を書いているところであるが、「自己」をめぐる問題は奥が深く、1回完結では書き切れない見通しとなってきた。定年退職まであと2年余りとなり、紀要論文に投稿できるのは、2016と2017年のそれぞれ4月と9月、合計4回を残すばかりとなった。退職前の最後の研究テーマとして、当初は「選択」を考えていたが、このままではどうやら、表記のテーマに変更せざるを得ないようである。 ちなみに、視点取得(perspective taking)に関するコンテンツをGoogleで検索するとさまざまな研究がヒットするが、近年、関係フレーム理論の枠組みから新たな見直しが行われているようだ。昨年、たまたま、この方面の権威であるM先生から、 McHugh, L., & Stewart, I. (Eds.) (2012). The self and perspective taking: Contributions and applications from modern behavioral science. Oakland, CA: New Harbinger Publications, Inc. という本を直々にご紹介いただき、理解を深めることができた。これを機会に、私なりの考えをまとめてみたいと思っている。 行動分析学、あるいは徹底的行動主義は、しばしば「意識なき心理学」などとレッテルを貼られた上で誤解されることが多い、「意識なき」だから自己の問題を無視しているのではないかといった更なる誤解もあるが、これは全く真実ではない。 確かに行動分析学は、「初めに自己ありき」という前提は設けていない。「自己」を行為(action)の仮説的原因であるとも考えない。このことに関してはスキナーは、 自己はごく一般的に、行為(action)の仮説的原因として用いられる。外在している変数が気づかれずに進行したり、あるいは無視されたりする限り、自己の機能は、生活体内にある行為の始発者(originating agent)帰される。行動の原因を示せないならば、われわれはその人自身がその原因であると言っている。【『科学と人間行動』, 18章、337頁. 藤本光孝訳】などと述べており、行動の原因を自己に帰属させることについては一貫して反対してきた。 そのいっぽう、私的出来事やセルフコントロールの問題には熱心に取り組んでおり、自らの著書の中で、個別の章まるごと、もしくは、関連する章のかなりの部分を割いて、「自己」に関連する諸問題を論じている。 次回に続く。 |