じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 160331(木)行動分析学における自己概念と視点取得(14)自然科学における私的な出来事(5) 昨日の日記の終わりのところで、私的出来事の言語的表明は必ずしも信用されておらず、時には嘘をつく場合があると述べた。もっとも、嘘をつくというのは、当人が私的出来事を「正確」かつ詳細に把握した上で、表明段階でそれを都合のよいように「加工」できることを暗黙の前提としている。しかしそのいっぽう、昨日の日記の冒頭でも述べたように、当事者であるからといって、からだの中の出来事をすべて知り尽くしているわけではない。自分を知るためには、皮膚の内側で起こっている現象について弁別する行動が強化されことが必要である。またそれを表明するためには、言語共同体で用意されたカテゴリーに従う必要がある。言語共同体のほうで適切なカテゴリーが用意されていない場合は、既存のカテゴリーを利用しつつ、他者が納得できるような新しい定義を提案する必要がある。いくら創造的とか新奇なアイデアであったとしても、既存の概念との対応づけができない限りはうまく納得してもらうことができない。 このことで少々脱線するが、2016年は、数学の世界で未解決問題として注目されてきたABC予想について、新たな進展があるものと期待される。この予想については、2012年8月、京都大学数理解析研究所教授の望月新一氏が abc予想を証明したとする論文を発表したものの、証明に用いた宇宙際タイヒミュラー理論があまりにも難解で、2015年10月のネイチャーによると、他の数学者が論文を理解できず、論文の正否について未だに決着をつけることができていない段階にあるという。私なんぞには、宇宙際タイヒミュラー理論を理解できる能力などこれっぽっちも無いが、数学者が論文を理解できないというのは、おそらく、その理論で提唱されている新しい概念が既存の概念とうまく対応づけできていないことに起因するものと思われる。 新奇な体験やアイデアを伝える有効な手段としてはアナロジーやメタファーがある。メタファは、当人にとってはうまく言語化できないモヤモヤに対処する場合にも有効である。ACTでメタファーが活用されている理由も頷けるところがあるが、メタファーというのは言語共同体や文化に根ざして成り立つものであり、アメリカで有効とされているメタファーがそっくりそのまま日本で適用可能というわけではない点にも留意する必要がある。 元の話題に戻るが、上記の「当事者であるからといって、からだの中の出来事をすべて知り尽くしているわけではない」というのは、「からだの中の出来事について知識は不十分である」ことを意味しているが、そればかりでなく、からだの中の出来事を歪んだ形で捉えたり、ありのままの状態に尾ひれをつけてキメラのように作り上げてしまい、挙げ句の果てには、そうした物語にがんじがらめになって動きがとれなくなってしまうことがある。そうしたフィルターを外して、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という態度で観察するために有効な手段となるのが、ACTの一環として行われるマインドフルネス訓練ということになるのだろう。 次回に続く。 |