じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 160406(水)行動分析学における自己概念と視点取得(20)自己(1) 今回からいよいよ『科学と人間行動(Skinner, 1953)』第18章「自己(The self)」の章に入る。といっても、この章は、原書で12頁にすぎず、自己を包括的に論じる章であるとすると物足りない気もする。もっとも「self」あるいは「self」を含む語は第21章「Group control」、第23章「Religion」、第24章「Psychotherapy」、第29章「The problem of control」などでもかなりの頻度で出現しており、スキナーの初期の著作における自己観を検討するためにはこれらの章にも言及する必要がある。 第18章では、「自己」に関して以下のの問題が重点的に扱われている。
まず1.であるが、「自己」はしばしば、行為の仮説的原因として用いられてきた。この点については以下のような記述がある。 The self is most commonly used as a hypothetical cause of action. So long as external variables go unnoticed or are ignored, their function is assigned to an originating agent within the organism. If we cannot show what is responsible for a man's behavior, we say that he himself is responsible for it. The precursors of physical science once followed the same practice, but the wind is no longer blown by Aeolus, nor is the rain cast down by Jupiter Pluvius. Perhaps it is because the notion of personification is so close to a conception of a behaving individual that it has been difficult to dispense with similar explanations of behavior. The practice resolves our anxiety with respect to unexplained phenomena and is perpetuated because it does so.【原書283頁】ということで、まずは行動の始発因としての自己は否定される。代わりに採用されるのが、2.で論じられている以下のような定義である。 ...a self is simply a device for representing a functionally unified system of responses.【原書285頁】 この結論を正当化するためには、実際にはどのようにして「機能的な統一」がはかられるのか、あるいは統一されず、対立したり、優先順位が入れ替わっていくような複数のシステムがあるのか、を明らかにしなければならない。この点について第18章では、パーソナリティやフロイトの3つの自己などに言及しつつ、統一体の過大評価については警鐘を鳴らしている。状況や文脈が異なれば、異なった行動傾向が生じるのは当然であろう。ちなみに、『科学と人間行動』においては、「identity」という言葉は一度も出てこない。ある人が長年にわたり一貫性のある特徴的な行動傾向を示したとしても、それは、その人の行動をコントロールしている環境変数が長年にわたり安定かつ不変であったためかもしれない。 次回に続く。 |