じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



04月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 岡大では、今週の月曜日より、クォーター制&60分×2授業が始まった。これまで90分×15回(期末試験は16回目)としていた2単位授業は、今年から、60分×2限続き×8回×2クォターで行われることになった。期末試験時間分を除くと、2単位相当の実質的な授業時間は22.5時間から30時間に増加した。

 水曜日は、心理学概説の授業を60分×2で初めて担当した。かれこれ25年以上、90分授業ばかりを行ってきたため、60分という時間枠でまとまった話をするのに苦労し、けっきょく、一部の内容は次週に繰り越しとせざるを得なかった。

2016年04月06日(水)


【思ったこと】
160406(水)行動分析学における自己概念と視点取得(20)自己(1)

 今回からいよいよ『科学と人間行動(Skinner, 1953)』第18章「自己(The self)」の章に入る。といっても、この章は、原書で12頁にすぎず、自己を包括的に論じる章であるとすると物足りない気もする。もっとも「self」あるいは「self」を含む語は第21章「Group control」、第23章「Religion」、第24章「Psychotherapy」、第29章「The problem of control」などでもかなりの頻度で出現しており、スキナーの初期の著作における自己観を検討するためにはこれらの章にも言及する必要がある。

 第18章では、「自己」に関して以下のの問題が重点的に扱われている。
  1. 「行動の始発因としての自己」の否定
  2. 単に「機能的に統一された反応システム」としての自己
  3. 自己知識が無かったら?
  4. シンボル(←フロイト)

 まず1.であるが、「自己」はしばしば、行為の仮説的原因として用いられてきた。この点については以下のような記述がある。
The self is most commonly used as a hypothetical cause of action. So long as external variables go unnoticed or are ignored, their function is assigned to an originating agent within the organism. If we cannot show what is responsible for a man's behavior, we say that he himself is responsible for it. The precursors of physical science once followed the same practice, but the wind is no longer blown by Aeolus, nor is the rain cast down by Jupiter Pluvius. Perhaps it is because the notion of personification is so close to a conception of a behaving individual that it has been difficult to dispense with similar explanations of behavior. The practice resolves our anxiety with respect to unexplained phenomena and is perpetuated because it does so.【原書283頁】
 自己はごく一般的に、行為(action)の仮説的原因として用いられる。外在している変数が気づかれずに進行したり、あるいは無視されたりする限り、自己の機能は、生活体内にある行為の始発者(originating agent)に帰される。行動の原因を示せないならば、われわれはその人自身がその原因であると言っている。物理科学の先駆者たちも、かつてそれと同じ思考上の習慣(practice)に従った。しかし、風の神アエオロスが風をおこすのでもないし、雨の神ジュピター、プルビウスが雨を降らせるのでもない。このような思考上の習慣がなくならないのは、擬人化(personification)の考えが、同様の行動の説明を要する人の概念に大変近いためであろう。この習慣は、説明できない現象に対して持つわれわれの不安を解消させるし、その不安が解消するために、思考上の過ちを犯させる。【翻訳書337頁】
 ということで、まずは行動の始発因としての自己は否定される。代わりに採用されるのが、2.で論じられている以下のような定義である。
...a self is simply a device for representing a functionally unified system of responses.【原書285頁】
...自己は単純に、機能的に統一された反応システムを意味する装置である。【翻訳書339頁】

 この結論を正当化するためには、実際にはどのようにして「機能的な統一」がはかられるのか、あるいは統一されず、対立したり、優先順位が入れ替わっていくような複数のシステムがあるのか、を明らかにしなければならない。この点について第18章では、パーソナリティやフロイトの3つの自己などに言及しつつ、統一体の過大評価については警鐘を鳴らしている。状況や文脈が異なれば、異なった行動傾向が生じるのは当然であろう。ちなみに、『科学と人間行動』においては、「identity」という言葉は一度も出てこない。ある人が長年にわたり一貫性のある特徴的な行動傾向を示したとしても、それは、その人の行動をコントロールしている環境変数が長年にわたり安定かつ不変であったためかもしれない。


次回に続く。