【思ったこと】170312(日)オドノヒュー&ファーガソン『スキナーの心理学』(24)第4章 徹底的行動主義(6)
3月11日の続き。
第4章では続いて、「心が存在する意味」という話題が取り上げられている。【長谷川による要約・改変】
- 心的現象は、空間的時間的に特定の場所を専有する物質現象とは異なり、時間的に特定場所を専有するのみの存在だと論じられている。
- 今日のおおかたの認知科学畑の人々は心的現象を実体としては考えていない。心的と言われるものと認知と呼んでいるものとは別のものだと考えている。
- こころ主義の人たちは、心的という時間だけを専有する特殊な実体が存在すると考え、他方、認知心理学者たちは、そのような特殊な実体は存在せず、唯一存在するのは生理学的機能だと考えている。
- 心と呼ぶ特殊なものは実在しない。内的経験というごく当たり前の生理的過程が存在するにすぎない。進化過程を通しての発達の結果、われわれは、神経系の一部に、非顕在的に反応できる部分を持つだけなのである。
これらについての私の考えは以下の通りである。
- 行動の予測と制御(影響)の精度を高めるという目的だけから言えば、「心」を想定する必要はない。
- 「心」を感じるメカニズムは、「いま、ここ」と並行して、過去や未来に関する言語反応、派生的関係反応や刺激機能の変換によって、プラスαの感覚が生じるためであろう。このプラスαは、個々人の学習歴によって個々バラバラであるため、そこに、自分という独自の存在があるように感じる。
- 自分と他者を区別する視点取り(perspective taking)の観点が不可欠。
- 臨床場面で、メタファーとして「心」を想定することは、技法としては有用。但しそれはあくまでメタファーであって、その裏付けとなるプロセスは別の専門用語で語られる必要がある。
次回に続く。
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