じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 昨日利用したピーチユニオンに続いて、今度は教育学部北にあるピオーネユニオンの食堂を利用した。ここの食堂の特徴は、1階で料理を受け取り、階段を上って2階で食事をすることにある。(いちおう、エレベーターもあるが。) 歳をとってくるとこれはけっこうきつい。また食事のあとは、再び階段を下って1階の返却口まで運ばなければならないが、両手でトレイを持ったまま階段を下ると、壁側のバーにつかまることができず転ぶ危険がある。もっとも私の知る限りでは、この階段を転落したという事故は起こっていないようだ。


2017年8月19日(土)


【思ったこと】
170819(土)ボーム『行動主義を理解する』(62)刺激性制御と知識(12)

 他の話題を取り上げていたためすっかり間が空いてしまったが、7月29日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。なお、行動分析学の用語統一議論については、専用フォームで少しずつ意見を送信させていただいている。内容はこのWeb日記の記載内容と殆ど同じ。

 本書161頁からは「科学者たちの行動」という話題が取り上げられている。まずは、「科学者も行動する有機体であるので、行動分析学の概念は、科学者ではない人たちの行動だけでなく、科学者の行動にもまったく当てはまると考えるべきである。」と論じられている。

 ちょうど、8月20日の朝、NHK-BSプレミアムで、

トナリのウチュウ(初回放送2015年10月13日)

の再放送をやっていた。番組では、世界は1つではない、100種類の動物がいれば100通りの世界があり、人間が見ている世界はその100通りの世界の1つにすぎないというようなことを言っていた。もっとも、ここでいう、100種類の動物のそれぞれの世界と、「100種類の世界があるはずだ」と主張する時の科学者が見ている世界は少々異なる。後者はメタ的な世界であり、客観性があり、100人の科学者を集めてきてもみな口を揃えて同じことを主張するように思われるだろう。

 しかし、それは、実際に見ている世界ではなくて、100通りあるという分類整理上の議論にすぎない。100通りあると主張する科学者が対象世界を見る時には、やはり1つの行動として見ているのである。

 別の例として、100人の観客が演劇を見ているとする。この場合、演劇を観ていない人でも、「100人の観客はみな異なる100通りの演劇を観ている」と主張することはできる。しかし、その人が実際に演劇を観ることになれば、おそらく101番目の異なる見方をするであろう。

 同じ人間であっても、必要に応じて、何通りもの見方をすることがある。番組で取り上げていた江戸川区の住宅街の中にあるカンタンの里(一之江境川親水公園。江戸川区西一之江5-12)の場合も、昆虫採集を目的に訪れた場合、植物の生態系を観察するために訪れた場合、さらには、外来生物の駆除を目的に訪れた場合では、見える世界は別々となる。カンタンの里は実在しているし、それは一箇所であることは間違いない。であるからして、「カンタンの里は1つしかない」と主張することは正しい。しかし、カンタンの里で人間が見ている世界というのは、そこにある環境要素の部分集合に過ぎず、また、ニーズに応じて、異なる基準で同じモノと違うモノを区別したり、異なる形でカテゴリー分けしたりしている。カンタンの里について、一言でもその中身を語る段階となれば、もはや語られる世界は無限通りとなり、同じ人においてさえ、一通りではないと言うべきであろう。もちろんそうは言っても、言語コミュニティの中では、事物は同じ言葉で呼ばれ、かつ、同じ出来事に遭遇するなかで、部分集合の交わりとして共有される部分もかなりの比率を占めている。そのことが、我々の見ている世界は1つであると錯覚する原因にもなっているのであろう。

次回に続く。