じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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ウェザーニュースの週間予報によれば、この先一週間の降水確率はすべて50%以上となっている。このように雨マークが連続して並ぶことは6〜7月の梅雨時でも珍しいことだ。 |
【思ったこと】 171012(木)日本行動分析学会第35回年次大会(4)超高齢社会における行動分析学(2)浦島太郎の替え歌 私の話題提供では、高齢者の老いと終末を考える際のポイントとして以下の4つを挙げさせていただいた。
長谷川芳典(2017).スキナー以後の心理学(26)高齢者のライフスタイル構築と終末. 岡山大学文学部紀要,68(印刷中) で論じられている。もっとも紀要論文自体も紙幅制限があり、上記の(2)は省略、(1)と(4)については概略を述べるにとどまっている。 でもって、まず(1)であるが、いまちょうど、教養教育科目として「行動分析学入門」の授業を担当している最中でもあり、その電子版教科書の発展編の項目として、 スキナーの幸福観をめぐる諸問題を新たに追加した。こちらのほうに、シンポではお話しできなかった基本的な考え方やいくつかの議論をまとめてある。 いっぽう、シンポのほうでは、ただ一点、童謡「浦島太郎」の行動分析学的替え歌を紹介させていただいた。こちらも、電子版教科書の発展編の項目の1つとしてこちらに追加させていただいた。要するに、童謡の歌詞2番の内容では、浦島太郎は「正の強化を受けながら行動を持続する」という機会が奪われているのですぐに飽きてしまう。替え歌のような内容にすれば、いつまでも竜宮城で過ごしたくなるという趣旨である。 【元の歌詞】乙姫様の御馳走に 鯛や比目魚の舞踊 ただ珍しくおもしろく 月日のたつのも夢の中 【行動分析学的替え歌】一緒に創ったごちそうに 鯛やヒラメとダンスして 多様な行動選択し 強化されつつ持続する なおこの替え歌について、指定討論者の浅野先生から、替え歌のように書き換えてもなお、浦島太郎は飽きてしまって住んでいた村に帰りたくなってしまうのではないかという御指摘があった。これは、「もともと住んでいた村で過ごす」という「活動」と、「竜宮城に滞在する」という「活動」という巨視的な選択機会の問題として議論することができると思う。仮に竜宮城の中で何でも自由に振る舞い正の強化を受けていたとしても、浦島太郎には、元の村と竜宮城の間を自由に行き来することはできなかった。つまり、ローカルな場面では選択する自由が保障されていたいっぽう、巨視的なレベルでは、竜宮城と元の村といういずれかに居場所を固定せざるを得なかったのである。竜宮城の中では飽きることが無かったとしても、村にいる肉親や友人に会ったり、元の村でなければできないような諸行動をしたりするために、乙姫様に暇乞いをすることはありうるとは思う。 なお、リンク先では、余談として、太宰治の『お伽草紙』という作品の中に示された「竜宮城観」も紹介されていた。太宰治バージョンの竜宮城では、どのような行動も許されており、かつ、強化されている。もっとも、何でもかんでも手に入るというような状況では、確立操作(動機づけ操作)が停止状態にあり、かつ、「努力の量と質に応じて好子を獲得する」というような強化スケジュールも用意されていない。この状況が真の生きがいをもたらすかどうかは大いに疑問である。いっぽう、 何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辭を交換し、をかしくもないのに、矢鱈におほほと笑ひ、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ、天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎ども...といったうわべの接待を皮肉っている点は私も同感である。私自身、もともと、職場の忘年会や学会の懇親会のたぐいは大嫌いで、今回の年次大会の懇親会も出席を辞退させていただいている。別段、学会の懇親会が「一から十まで嘘ばかりの社交」というわけではないが、とにかく、私は、ワイワイガヤガヤのムードは好まない。 次回に続く。 |