じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 171224(日)関係、対応づけ、文脈をめぐる議論(4)文脈とは?(3) 昨日の続き。 トールネケ(2013、『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』、武藤・熊野監訳)の本文では、まず15ページのところに以下のような記述がある。 ...徹底的行動主義の観点からは,行動を,その文脈を研究することなく理解することはできない。行動はすぺて,文脈の中で起こるものである。しかし,文脈のほうも,行動から独立して研究されることはできない。なぜなら,何かを研究しようとする科学者の試みもまた,行動だからである。結局のところ,研究される対象は,私たちがそれを研究するというだけで,すでに私たちが働きかけをしている行為の対象なのである。このように,行動を文脈から切り離して理解することができないのと同じように,生体にとって,行動なしの文脈というものもあり得ないのである。続く段落では、刺激と反応の関係について以下のように述べられている。 今まで見てきたような科学者の行動についての捉え方は,より一般的な意味においでも正しい。というのも,刺激と反応(行動)は共依存的(codependent) であ1),双方は一緒に考察されるべきだからである。刺激と反応は1つのまとまりを形成しているからである。ただし,私たちは,何らかの具体的なねらいがあって,そのための実践上の理由があるなら,そのまとまりを個々に扱うこともできる。そして,Skinner が創出しようとした行動科学はある目的を持っている。つまり,それは「行動の予測と制御(影響)」である。徹底的行動主義者は「真実を解き明かす」ということを主張しているのではない。むしろ,私たちが主張しているのは「この方法,つまり徹底的行動主義の科学プロジェクトが,自分たちの目的達成のために役立つ」ということなのである。上掲の部分は、文脈とは何かの議論というよりも、徹底的行動主義とは何かという議論にかかわるものである。 もっとも、微視的な実験的行動分析の研究の中には、自然科学と同じような、文脈を超えた普遍性を追究している人たちもいる。このアプローチは方法論的行動主義とも実在論の立場とも言える。 次回に続く。 |