じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 定年退職記念・岡大の花(3)ミモザ

 文学部西側(駐車場北側)にあり、3月下旬は見頃となる。当初は4本あり、実生で合計6本まで殖えたが、その後病害虫により3本が枯死し、2018年2月時点では3本のみとなった。

2018年2月24日(土)


【思ったこと】
180224(土)ボーム『行動主義を理解する』(93)自由(8)

 本書254頁からは、「強化の罠」にはまることがなぜ不自由かつ不幸をもたらすのかが論じられている。ひとくちで言えばそれは、少し前に言及された「強制」と同じように機能しているからである。いっぱんに、短期的には好子が随伴しても究極的には重大な嫌子が出現するというような行動は「悪い行動」と見なされる。逆に、短期的には小さな嫌子が随伴しても究極的に大きな好子が出現するような行動は「良い行動」と見なされる。究極的な結果によって強化や弱化される行動はルール支配行動であり、それらは文化的実践を通じて進化していく。

 もっとも、254頁に述べられているように、政府や自治体が強化の罠を利用することもある。例では宝くじが挙げられていた。(←厳密に言えば、この宝くじの例は妥当ではない。宝くじ購入者は、莫大な賞金に誘惑されてクジを購入するが、当選確率はきわめて低いため、購入しても、短期的な好子で強化されることは殆ど無いからである。国民の一部をニコチン依存にさせて、たばこ税という形で税収を増やす事例のほうが適切であろう。)

 254頁では続いて、宗教や小説の中で語られる「精神的自由」に言及されている。「精神的自由」はいっけん、好子出現による制御からも自由であることを求めているように見えるが、実際は、
行動的な用語で言えば、精神的自由を唱えることは、すべての正の強化からの自由を論じているのではなく、どちらかといえば、ある正の強化子からではなく別な正の強化子からの自由を言っているのである。それは、生活の質についてである。「生きるために食べよ」「すべての事柄に控えめであれ」は、食べ物、セックス、衣服、あるいは自動車をあきらめるべきだと言っているのではない。それは、そのような強化子が人生の主なあるいは唯一の強化子であってはならないということを言っているのである。
という区別が重要であると論じられている。これは結局、「高級や喜びと低級な喜び」の区別とも言えるし、ACTで言われている「価値とゴールとの区別」にも通じるところがある。

 次回に続く。