じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園のエキウム(Echium wildpretii)が見頃を迎えている。リンク先に記されているように、エキウムはカナリア諸島原産で、現地では高さ3メートルを超えて育つ。その外見から「宝石の塔」とも呼ばれるという。「日本では気候環境の違いから、生育は困難と言われている。京都府立植物園、安城産業文化公園デンパーク、東京ディズニーシーなどで開花状態を見ることができる。」と記されているが、半田山植物園もその1つに加えられそう。

2019年5月9日(木)




【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始22周年(4)「じぶんの更新」で自分の存在を実感する理由

 昨日の日記で、「記録が残らないと丸々失われたような気がする」と記した。もっとも、私の場合、日々の起床・就寝時刻、食事内容、移動、排便などを克明に記録したからといって、喪失感が消えるわけではない【5月7日の日記でリンクさせていただいた日記の中には、20数年以上にわたって日々の行動を克明に公開している方もおられる。】

 話が突然変わるが、5月8日のごごナマに、私とほぼ同世代の秋吉久美子さんが出演していた。番組の終わりのほうで秋吉さんは、駐車場の誘導員の仕事に憧れているというような話をしておられた【長谷川の記憶のため不確か】。俳優は撮影本番と待機の繰り返しだが、駐車場での誘導はずっと本番。
 ここからは私の推測だが、秋吉さんのような大女優になると、いろいろな役を演じている最中の自分と、「いま、ここ」に居るホンモノの自分が融合してしまう可能性がある。いっぽう、駐車場の誘導員は、次々と入場してくる車をリアルタイムで誘導しているため、まさに「いま、ここ」の環境で役割を果たしている。このあたりが秋吉さんにとっての魅力ではないかと思うのだが、私はむしろ逆で、一瞬たりとも考え事が許されないような緊迫した現場で、機械の部品になりきって作業をするような仕事をしていると、すっかり自分が無くなってしまうような気がする。

 けっきょく、私の人生、とりわけ隠居生活後の人生は、
  • 規則的な日常生活と、旅行などを通じた非日常的な生活を交互に体験し
  • そのことを適度に記録し
  • 適宜、回想し、
  • 「いま、ここ」の世界と重ね合わせて自分の存在を実感する
ということになりそうだ。某セラピーの思想とは異なるかもしれないが、私の場合、「いま、ここ」のみの世界ではなく、過去の体験と重ね合わせた現実に関わることのほうが、心地よい感触がある。ま、これは、加齢のせいだろう。




 ここで再び「じぶんを記録する」という話題に戻るが、上に述べたように、私の場合、日々の生活を克明に記録するという形では自分の存在を実感することができない。というか、もともと、自分とは何かという問題に立ち入ってみたところで、タマネギの皮を剥くようなもので中身はなにもない。おそらく、過去体験がもたらす反応と、現実環境への反応の複合がもたらす特殊な感覚のようなものであって、それ以上でもそれ以下でもないように思われる。
 自分自身が「じぶん」について知ることのできるのは、結局のところ、自分そのものの「本質」ではなく、何かを体験した時にそれにどう向かったのか、それによって自分がどう変化したのかということしか語ることができないのかもしれない。そういう意味では、「じぶんの更新内容」を語ることがイコール自分自身について語ることにつながるのではないかという気もする[]。
]このあたりの議論は、電子版教科書の1.2.に関連している。

 そのこともあり、このWeb日記に記すことは単なる「自学ノート」ではない。新しいことを学んだ時の備忘録ではなく、新しく学んだことについて自分がどう考えたのか、というオリジナリティが重要であるとは思う。とはいえ、チコちゃんヘウレーカの連載記事にも見られるように、私が付け加えた感想や「発展的」考察はそんなにレベルの高い内容ではないし、オリジナリティが発揮されているとも言い難い。このあたりは私の知力の限界と言わざるを得ない。