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びわ湖疏水の取水口(写真上。京阪・三井寺駅下車)と、哲学の道起点の浄土寺橋から眺める疏水分線。↓の記事参照。 |
【小さな話題】 久しぶりの京都観光で初めて知ったこと(2)琵琶湖疏水はなぜ造られたのか? 今回の1泊2日旅行の主目的は「びわ湖疏水船」乗船であった。ウィキペディアによると、大津・蹴上間の観光船運航の経緯は以下の通りとなっている【長谷川により要約・改変あり】
ということで、今回の乗船を機会に琵琶湖疏水について疑問に思っていたことを調べてみた。 いちばんの根本疑問は、そもそも何のために琵琶湖疏水が造られたのか?であった。これまで私が考えていたのは「水道水の水源の確保」であり、じっさい、こちらのQ&Aに、 京都市における水道水の原水については,約99%を琵琶湖疏水を通じて琵琶湖から取水しています。残りの約1%は,桂川や地下水等から取水しております。と記されていることから、疏水の目的の1つであったことは間違いあるまい。 もっとも、京都と言えば、町の中心部には鴨川(上流は加茂川と高野川)、西部には桂川が流れており、琵琶湖の水に頼らなくてもこれらの清流だけでも水道水の原水として充分な水量があるように思えた。 では疏水の本来の目的は何であったのか?ということであるが、ウィキペディアの記述や今回の乗船時に受けた説明によれば、明治維新と東京奠都により、京都の産業が衰退していたことをふまえ、第3代京都府知事の北垣国道が産業振興を目ざしたものであり、その当初の計画は、「灌漑、上水道、水運、水車」であったという。このうち「水車」というと、水車小屋での粉ひきか、用水路から田んぼへのくみ上げをイメージしてしまうが、当時の計画では、東山一帯で水車の動力を利用した工業を盛んにするというアイデアであったようだ。しかし、産業革命後の技術はめまぐるしく発展しており、工事着工後に、水車の代わりに水力発電に計画が変更され、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設。1891年に運転が開始された。この電力を用いて、1895年には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まった。なお、この京都電気鉄道というのは、京都市電の前身であり、京阪電気鉄道(京阪電車)とは直接関係がなさそうである。 元の話に戻るが、ネットでさらに調べたところこちらに、疏水建設目的について詳しい記述があることが分かった。それによると【長谷川により要約・改変あり】、
ということで、私の疑問であった「京都と言えば、町の中心部には鴨川(上流は加茂川と高野川)、西部には桂川が流れており、琵琶湖の水に頼らなくてもこれらの清流だけでも水道水の原水として充分な水量があるように思えた。」という点については、鴨川は見た目ほど水量が豊富ではなく、かつ渇水期と洪水期の変動が大きく安定していない、という理由でほぼ納得できた。確かに、岡山の三大河川に比べると鴨川水系は水源までの距離が短く、冬場に積雪があるとしても渇水を補うほどではないのかもしれない。 では、現在、琵琶湖疏水はどのような経済効果をもたらしていると言えるのか。すでに水車構想や、水力発電、舟運、潅漑としての役目は終えているように思われるが、水資源の確保という点では昔と変わらない役割を果たしており、やはり疏水の水なくして京都は成り立たないと言えるようには思う。このほかネットで検索したところこちらなど、専門的な観点から経済波及効果を分析した論文もあることが分かった。 |