じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 この連載の最終回。
  • A:京大正門前(かつての「東一条」の交差点。2018年9月16日の日記で立て看攻防の話題を取り上げたことがあったが、本部構内周辺の道路側の立て看は完全に姿を消していた。
  • B:吉田寮前。寮の一部やサークルボックスは建て替えられたようである。入口付近には数枚の立て看が残っていた。「寮」をうかんむりに「R」と書くのは45年前と変わっていない。
  • C:西部講堂は昔のまま。北側に宿舎風の建物が新たに建てられていたが、公式マップでは説明がつけられていない。
 なお、すでに定年退職から1年が経過し、面識のある教員もすべて定年退職・転出していることから、私がこの先、再び京大構内を訪れる可能性は殆どない。但し、紅葉の時期に参観予約がとれれば、修学院離宮京都仙洞御所を訪れたいとは思っており、その途中に立ち寄る可能性はあるかもしれない。

2019年6月11日(火)



【連載】

引きこもりと孤独力(3)孤独自体は悪いことではない

 引きこもりや孤独の問題については、このWeb日記でも何度か取り上げたことがある。  今回の引きこもりの話題は40〜64歳を対象としたものであり、65歳以上のケースとは少々性質を異にしている。引きこもりにはいろいろな原因・事情があるので一概に言えないところもあるが、経済的な自立という点ばかりでなく本人にとっての生きがい創出という点から見ても、可能な限り「外の世界に働きかけ、その結果によって強化される」機会を増やすことが望ましいように思う。以前、あるセラピストが10年以上にわたって引きこもり者と接した事例を耳にしたことがあったが、そのセラピストのやり方は、毎月1回程度、引きこもり者の話をただ聴くだけでセラピスト側からは何も勧めず、何かの行動機会を紹介することもなかった。そうしたやりとりを10年以上続けたところ、最近になって「働いてみようかなあ」という言葉を口にするようになったということで事例報告は終わっていたが、これって本当にセラピーと言えるのだろうか、なぜもっと積極的にいろいろな機会に参加して行動が強化されるような働きかけをしなかったのか、大いに疑問に思ったことがあった。

 ちなみに、私自身は、孤独自体は悪いものだとは思っていない。2012年9月19日にも書いたように、
人生には、中年期〜老年期〜虚弱期といったライフステージがあり、「孤立と孤独」もそれぞれの段階別に分けて、メリットとデメリット、生活維持の困難度、必要な支援等を考えていく必要があるように思う。比較的若く健康な段階では、自立的な生活が十分に可能であり、悠々自適の満足な生活を続けているのであれば、地域の集団活動に無理やり誘うのはお節介というものだろう。「交流」や「絆」は決して悪いことではないが、度が過ぎると主体的な選択機会が奪われ、周囲に振り回されて自分を見失う恐れさえある。
 例えば、いつも仲良し3人組で過ごしている中高生と、一人で自室に籠もって哲学書を読みふけっている中高生を比べると、後者のほうが孤独で引きこもっているかのように見える。しかし、仲良し3人組は3人という殻にこもってその中の世界に入り浸っているだけであって、じつは外の世界とは全く接触していないかもしれない。いっぽう、後者の中高生は、時代を越えて世界中の哲学者と対話をしていると言えないこともない。また、仲良し3人組は、いったん何かのトラブルで喧嘩別れをしてしまうとたちまち孤独に陥るが、一人で自室に籠もっている中高生はそのようなトラブルに巻き込まれることさえない。

 ま、いくら「絆」と言ったところで、高齢になればなるほど、家族や友人と死別が増え、一人で暮らす可能性が高まっていく。そう言えば、6月12日朝のモーサテクイズによると、2040年には、75歳以上の世帯は全体5075万の4分の1にあたる1217万世帯となり、独り暮らしは全体の4割に達するという。独り暮らしの人たちが相互扶助の中でより安全で安定した生活を守っていくことはもちろん必要であるが、その土台には個々人の孤独力がなければならない。孤独力を持たない人たちが相互に依存し合うだけでは社会は成り立たないであろう。

 次回に続く。