じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 7月31日のNHK「あさイチ」で取り上げられた「日記療法」。マインドフルネスとの関連にも言及された。↓の記事参照。

2019年8月1日(木)



【小さな話題】

NHK「あさイチ」:「大人の日記」のパワー、マインドフルネス、感情の言語化

 7月31日のNHK「あさイチ」で、日記をつけることの効用が取り上げられていた。放送全体を視聴したわけではなく録画もしていなかったが、リンク先で大体の内容を把握することができた。概要は、以下の通り【リンク先のコンテンツを改変】
  1. 「育児日記」が子育ての支えに:時にはストレスを抱えることもあるが、つい忘れがちなささやかな喜びや発見を読み返すことで思い出して、元気をもらえる。
  2. 「ほめる日記」で 何があっても大丈夫に:毎日、少なくとも一つは必ず自分のことをほめることをルール化。たとえ失敗やイヤなことがあっても、そこに至るまでの行動や対処、切り替えなどをほめる。脳は「ほめ言葉」に反応して、ドーパミンを分泌するため、やる気の増進につながる。「ほめる日記」で自己尊重感が高まると、周囲の人を大切にすることにもつながる。
  3. 医療の現場でも・・・ 「日記療法」:自分の内面に目を向けて、一つ一つの出来事にどんな感情を持ったか書いて見える化する作業。怒りの奥にある感情を明らかにして対処できるようになったことで、怒る必要がなくなる「怒りの無意味化」に繋げる。
  4. 心をふかんしてシンプルに 「1行日記」:1日に1行だけ書く日記。喜怒哀楽など心が動いた場面とそのときの感情、どう対処したかを書く。マインドフルネスのエクササイズでもある。日記に書くためにわずかでも自分を客観視することで簡単に習慣化する。何かあっても過去への後悔や未来への不安などにとらわれず、現在を生きるしなやかな心のあり方を強化する。

 「日記を書く」という行動に関して言えば、私などは1997年5月6日から執筆を開始、旅行期間など除いてずっと執筆を継続しているので、日記パワーによって十二分に精神的健康を保っていることになるはずだ。もっとも私の日記には、感情の記録は殆どない。感情表現を避けているというのではなく、そもそも、言葉に記すほどの感情変化は起こっていないというのが率直な感覚である。

 じっさい、私は小学校高学年頃までを最後に、涙を流して泣いたことが無い。ゲラゲラと笑いこけたこともない。例外的に「怒り」の感情だけは、時たま、大学構内で違反喫煙者を見かけた時に発せられることがあるが、それもその場限りのことであり、最初は怒鳴りつけても、その後は声を和らげてネチネチと禁煙のオススメをするモードに移行する。このほか、私は、何かの料理に感動したことがない(←料理番組のゲストに招かれたとしても、ただ無表情で「おいしいです」と表明するのが精一杯であり、料理の美味しさをアピールする役割を演じることは絶対に無理だろう。) 世界各地の絶景に接した時には感動するが、歓声を上げたり、涙が出るほどにうちふるえるというようなことは全く無い。

 なので、1つ1つの出来事にどんな感情を持ったのかと言われても、そもそも感情は持たないのだから言語化できるはずがない。そういう日記を書けと言われても書きようがない。

 そう言えば、小学校の頃から、紀行文や読書感想文の課題を出された時に、「その時、どう感じましたか」とか「主人公はどういう気持ちだったと思いますか」といった感情表現や共感表現を書くように指示されて困窮したことがたびたびあった【「登場人物がどういう気持ちになったのか?」なんて、その人の勝手でしょ」というのが私の率直な気持ち】。国語が嫌いな科目であった一番の理由もそんなところにあった。

 ま、私のようなタイプは、他者からは無感情で共感性に乏しい[]厄介者のように見えるかもしれないが、自分自身としては、感情に振り回されない規則的で安定した生活を維持できていると思っている。
]もちろん、私でも、電車やバスで席を譲ったり、道に迷っている人に声をかけたりすることはあるが、それは相手の気持ちを察した上での共感に基づく行動ではなく、「こういう場面ではこうするべきだ」という倫理的規範に基づいて行動している可能性が高い。とはいえ、アレキシサイミアと言われるほど顕著な特徴があったわけでもない。

 元の話題に戻るが、私自身にとって、Web日記の執筆は、規則的な日課、自分自身の思考整理といった点で大きな効用があるように思う。いっぽう、感情起伏の激しい人が、上掲の3.や4.のようなスタイルで、特定感情が生じた時の文脈を探り、不適応的な感情の無意味化を図ろうとすることも大いに意味があるとは思う。

 但し、感情に振り回されずに生活できている人は、重箱の隅をつつくようにわざわざ、日々のどうでもよい出来事に目を向けてその時の感情をほじくり出して記録する必要はないように思う。もともと無意味であるような感情は、わざわざ「無意味化」するまでもないからだ。←漠然とした不安や恐怖に苛まれている人の場合は、無意味ではないので、いったん言語化して文脈を探る必要があるが。

 「自分を褒める日記」というのも人それぞれであるとは思うが、私自身は、今のところ自身喪失状態には陥っておらず、ヘタに自分を褒めたら自信過剰になって他者に迷惑をかけそうな気もする。

 もう1つ、「何かあっても過去への後悔や未来への不安などにとらわれず、現在を生きるしなやかな心のあり方を強化する。」を徹底するためには、過去由来の負の感情を受け流し、「いまここ」の中に継続的な喜びを見出すテクニックが必要かと思う。そのあたりはACTの入門書に書かれてあったはずだ。