じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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10月23日の朝はよく晴れ、備前富士(芥子山)からの日の出を眺めることができた。備前富士頂上からの日の出(「ダイヤモンド備前富士」)の写真がこちらにあり)。

2019年10月22日(火)



【小さな話題】終末期の心と行動(4)

 10月21日の続き。

 この連載のきっかけとなった「高齢者の心と行動」の話題提供が無事に終了したこともあり、このテーマについての暫定的考察もそろそろ最終回をとさせていただく。

 まず、「人生最後」の一日を空っぽの部屋に喩えたことに関連して、施設に入居している高齢者はすでに入居の段階で多くの持ち物を処分しており、受け止め方がかなり異なるのではないかというご指摘があった。もっとも私の考えは、必ずしも、断捨離で言われているような「物を断つ、物を捨てる、物への執着から離れる」ということではない。私の挙げた例が悪かったとも言えるが「空っぽの部屋」というのは、もうこれ以上移動する物が無くなり、作業が完了した時の「終わった感」を意味するものであった。また、引っ越し作業を例に挙げたため物とのかかわりが連想されてしまったが、私自身が意味していたのは、「もう充分に頑張った。これ以上続けなくてもいい。」という「行動の充足感」のようなものであった。なので、僅かの思い出の品を並べた棚とベッドだけの施設で暮らすようになったとしても、まだ続けたいことが残っていれば、空っぽとは言えない。

 「これ以上続けなくてもいい」というのは、「何もすることが無い」や「何もする気が起こらない」と同義ではない。あくまで「充分に頑張った」あとに続く充足感でなければならない。なので、当該の行動(活動)においてそれなりに努力する必要がある。別の行動で補完したり、見方を変えるといったやり方ではその境地に近づくことはできない。

 もっとも、ヘタに高い目標を掲げるとその達成だけに執着してしまうことになり、未達成の場合、挫折感だけが残る。ACTの関連書で「価値」と「ゴール」の違いが論じられているが、私もほぼ同感である。「もう充分に頑張った」というのはあくまで「価値」との関わりにおいて努力を惜しまないという意味であって、ゴール達成の有無によって評価されるべきではない。

 終活というと、相続や葬式、お墓のことがすぐ話題にのぼるが、本質的な問題は人生をどう全うするかということにある。まずは自分のやってきたことをしっかり整理し、けじめをつけることが必要。定年退職から1年半になるが、これにはけっこう時間がかかることに気づいた。あくまで私個人の考えであるが、無宗教の私は、修行や瞑想、あるいは念仏やお題目を唱えるという形での終活は全く予定していない。あくまで現実世界との関わりの中で「もう充分に頑張った」という境地に近づいて行ければそれでよいと思っている。