じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



02月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 個別学力試験(前期)が無事終了し、岡大構内に大量の自転車が出現した。これらは新入生のアパート・マンション紹介の際にレンタルされ、その後中古車として販売される。合格者発表はまだ先のことだが、物件探しはすでに本番。

2020年2月27日(木)



【小さな話題】AIが創る手塚治虫漫画の新作

 各種報道によれば、AIの技術を駆使した新作漫画『ぱいどん』が2月27日発売の『モーニング』に登場するという。

 ここでいうAIとはディープラーニングのことであり、1970年代中心の手塚漫画65作品から「手塚作品らしさ」を学習させ、構成要素を抽出。また登場人物の顔や特徴なども過去のキャラの画像に基づいて創り上げられたという。但し、コマ割り、セリフ、最後の仕上げ部分は人間の手によるものであり、「AIが自動的に創った」のではなく「ディープラーニングと人間との共同作品」と位置づけるのが正確ではないかと思う。

 2月27日朝の「モーサテ」では、作品づくりのプロセスがより詳しくが紹介されていた。
  • AIと人間が協力して手塚治虫の新作を作るという「TEZUKA2020」のプロジェクトは、「キオクシャ(旧東芝メモリ)」の社名変更を記念したキャンペーンの一環として行われた。
  • まず、AIにこれまでの手塚作品の流れや登場人物を読み込ませる。
  • AIが手塚作品の特徴を生かしたストーリー案を考えキャラを描く。
  • AIが考えた原案をもとに人間が手を加え完成。

 実際の作業で困難を極めたのは、過去の作品で描かれていた顔の識別である。単に過去作品から共通パターンを抽出しようとすると、ホラー漫画に出てくるようなとんでもない顔になってしまう。そこで新たな方法として、実際の顔写真から顔を読み込ませることでAIに人間の顔を学習させ、より手塚らしい「顔」の生成に到達したという。

 ディープラーニングを応用した「創作」についてはこれまでにもいくつか耳にしたことがある。うろ覚えになるが、
  • 著名な画家の作風を真似た絵画
  • 好みの音楽の特徴に基づいて、その人にマッチした音楽を作曲
  • モノクロ写真への着色
  • ニュース記事をもとに川柳を創る
などなどがあったと思う。

 今回は手塚治虫作品であったが、その気になれば、ドラえもん、サザエさん、アンパンマンなどでも原作者の作風に似せた「新作」を創ることは可能であろうし、水戸黄門や遠山の金さんなどのドラマのシナリオも作れるはずである。もっとも、いまテレビで放送されているドラえもんやサザエさんのアニメは、原作者の死後に、スタッフが原作者の作風に配慮した上で新たに制作したものであり、むしろ、原作者とは異なるアニメ独自の特徴が反映されるかもしれない。また、水戸黄門や遠山の金さんのドラマは、もともとワンパターンな展開になっているため、AIにより学習させると、いっそう陳腐な、ワンパターンのシナリオになってしまう可能性が高い。

 いずれにせよ、創造性(閃き、独創性、想像力、...)といったものは生まれつき与えられた特殊な能力ではない。あくまで学習経験の積み重ねの結果であり、AIのディープラーニングでも代替可能な能力であると言えよう。学習経験の積み重ねの結果であるということはすでにスキナーによって指摘されていたが、スキナーの時代はまだまだ研究データの蓄積が乏しく、突拍子もないアイデアがどのようにして生まれてくるのかを経験科学として説明できる段階にはなかった。その後、関係フレーム理論などを通じて、恣意的に確立された関係反応の派生のしくみ、アナロジーやメタファーのしくみやその効用が明らかにされるようになった。

 少し前にレオナルド・ダビンチの天才的な着想や発明の力を取り上げた番組があった。例えば、ダビンチが心臓の弁の動きに渦の力が関与しているという着想を得た話でも、彼がそれまでに興味をいだいていた水、水流、渦の仕組についての考察から派生したものであり、学習経験の積み重ねの結果であることが示唆されていた。

 ま、そうは言っても、ディープラーニングに基づく「創造」というのは、原理的に言ってマンネリに陥りやすい恐れがあるように思われてならない。例えば、AIの将棋力はいまや名人・竜王を凌ぐレベルに達しているが、AIの指し手が独創的な名手にあたるのかどうかは分からないところがある。人間が気づかないような妙手を繰り出すというのは、多くの棋士が特定の固定観念に囚われていて編み出せなかったことに起因して妙手として評価されるのであって、実際は、最も勝率が高い陳腐な手であるかもしれない。もちろん、「意外な手」と「当然の手順」には本質的な差はなく、あくまで、評価の文脈や過去の事例との相対比較の中でそのように呼ばれているだけに過ぎないとは思うが。