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生協食堂では新型コロナウイルス対策として窓を開け放しているため、ガラス越しではなく直に外の景色を撮ることができるようになった。写真は、窓の外のケヤキの新緑と時計台。 |
【小さな話題】「オラファー展」と日本庭園と世界の奇景 5月27日(水)の「シブ5時」で、「おうちでミュージアム」の一環として「体感して考える:オラファー・エリアソン展」を紹介していた。 オラファー・エリアソンはデンマーク・コペンハーゲン生まれのアイスランドの芸術家で、現在はベルリン在住。これまでにも、「ウェザー・プロジェクト」、「ニューヨーク・シティ・ウォーターフォールズ」など、体験型やサイトスペシフィックな作品で知られているという。 今回の東京都現代美術館での展示は、新型コロナの影響を受けたものの、6月9日から9月27日まで開催される予定となっており、東京方面への移動制限が解除されて上京の機会があれば一度訪れてみたいと思う。 もっとも、こうした現代アートの発想は、美術館の中の展示物だけに限られるものではないように思う。例えば、枯山水も池泉回遊式も、単に美しい人工的風景というだけでなく、何かを象徴したり、鑑賞者の創造を豊かにするようないろいろな仕掛けが作られている。美術館内の展示物は、金属、ガラス、照明といった人工物だけで構成されることが多いが、庭園は、四季の変化を取り入れているという点で、自然を体感して考えることができるのだ。 現代美術に限らず、芸術作品というのは、制作者と鑑賞者があって初めて成立するものであるが、鑑賞者の「体験して考える」行動自体は、制作者が存在しない自然風景の中でも可能である。私自身の体験で言えば、例えばウユニ塩湖や月の谷、ヤンギカラ、あるいはエメラルドグリーンの泉などは、バーチャルでは決して体験することができない。 このほか、制作者は存在するが、芸術作品とは言えないケースとして古代遺跡がある。マチュ・ピチュにしても高昌故城にしても、制作者は、別段、芸術作品として街を作ったわけではない。あくまで、その時代に生きている人たちのための生活や防衛のための施設であった。しかし、後世の観光客は、朽ち果てた風景を芸術作品と同じように鑑賞する。現代美術家がどんなに頑張っても、あのようなスケールの大きな作品を創ることはできない。 昨日取り上げた『東京幻想作品集』も、眼前の日常風景と同一場所が廃墟化した時の仮想風景を対比させることで、重層化された日常が可能となる。世界の奇景に接することも、現代社会の日常との対比によってこそ、より豊かな日常の実現に繋がる。 ということで、現代美術ばかりでなく、さまざまな非日常風景を「体験して考える」ことには大きな意義があるように思うのだが、新型コロナウイルスの移動制限のもとでは、バーチャル以外の体験はきわめて難しくなっているのが辛いところだ。 |