じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 久しぶりに教育学部方面をウォーキングしたところ、芝地にあった「謎の球体」が破壊されていた。この球体は少なくとも4年以上前からこの場所にあり、私の日記でも、 などで取り上げたことがあった。自然に割れるものではないので、心無い者によって破壊された可能性が高い。まことに残念なことをした。

2021年11月17日(水)



【小さな話題】1964年には何があったのか?(1)水不足

 11月15日に再放送された、NHK「映像の世紀プレミアム第15集 東京 夢と幻想の1964年」【初回放送2020年1月3日】を録画・再生で視た。

 1964年と言えば東京オリンピックの年であり、当時私は12歳(小学6年生)になっていたのでかなりの記憶が残っているが、オリンピックとはあまり関係の無さそうな出来事については、その頃確かにそういうことがあったという記憶はあるものの、前後関係はかなり曖昧になっていることが分かった。

 まず、1964年の東京オリンピックというと、国民の多くが期待し、一丸となって日本選手を応援したというような印象が強いが、NHKが1964年6月に都民1500人を対象に世論調査を行ったところでは、「近頃どんなことに一番関心を持つか」という問いに対して「オリンピック」と答えた人の割合はわずか2.2%に過ぎなかった。そのいっぽう「【オリンピック以外に】他にするべきことがあるはず」と答えた人は58.9%に及んだという。

 この年の夏、東京は深刻な水不足に見舞われた。空梅雨に加えて70年ぶりと言われる猛暑、さらに、人口の東京集中により水需要が一気に高まったことが原因であった。7月21日には1日12時間の断水を伴う給水制限が行われた。当時、対策の1つとして、利根川の水を荒川経由で東京に運ぶという「利根川導水路事業」があったが当初の計画では1968年完成予定となっていてオリンピックには間に合いそうも無かった。8月に入ると水不足はますます深刻化し、都内ではバケツを手にした人々が大人も子どもも給水車の前に並んだという。

 当時、世田谷に住んでいた私も、この水不足で相当の不便を強いられていたはずなのだが、殆ど記憶には残っていない。おそらく、
  • 私の住んでいる地域の水道は、多摩川近くの地下水から取水していたため、日照りの影響を受けにくかった。
  • 私の生家には戦前から井戸があり、お風呂の水などは井戸水で何とか足りていた。
  • 当時は汲み取り式のトイレであったため、断水でトイレが使えなくなるということは無かった。
  • 夏休みに入っていたため、学校生活で不便を強いられることはなかった【もっとも、この時期、給食ではなく弁当持参をしていた記憶があるが、水不足のせいだったか、給食施設の改修のためだったかは不明。プールの授業は中止されていたような記憶もあり】
といった理由により、それほど影響を受けなかったものと思われる。

 でもって、この水不足はどうやって解消されたのか? このことは今まで一度も考えたことが無かったが、番組によれば、8月20日、予報には無かった大雨が降り、降水量は都心で63ミリ、水源地(小河内ダム)で80ミリを記録した。またその5日後には、河野一郎の命令による24時間突貫工事で早められた荒川からの給水が行われるようになり、水不足は一気に解消された。

 1964年8月20日の天気図がどうなっていたのか調べてみたが、気象庁の公式の天気図が公開されているかどうかは確認できなかった。gooの記録には1964年8月の天気の記録があり、これを見ると、東京では8月20日以降は雨や曇りの日が9月4日頃まで続いており、8月20日一日だけの雨で水不足が一気に解消したというわけでも無さそうであった。このことは、気象庁の公式記録からも見て取れる。おそらく、秋雨前線が長期間停滞したことによる降水と思われるが、なぜ日照りから一転してこういう気圧配置になったのかは分からなかった。
 なお1964年の月別の降水量を見ると、1964年の東京の降水量は、6月に139.9ミリ、7月に45.9ミリ、8月に110.8ミリとなっており、7月の降水量が平年値の1/3であったことは確かだが、それほど極端に雨が少なかったわけでもないようにも思える。

 次回に続く。