Copyright(C)長谷川芳典 |
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この時期に目をひく雑草3種。上からオオイヌノフグリ、ナズナ、ホトケノザ。いずれも「お花畑」を構成する。なおナズナの近縁種についてはこちらにも記した通り。 |
【連載】コズミックフロント「“幽霊粒子” ニュートリノの謎」(3)「光は存在するか?」 昨日に続いて、2月24日に初回放送された表記の放送の感想・考察。 昨日までのところで、ニュートリノの発見・検証の歴史について言及した。私が理解した範囲では、ニュートリノははエンリコ・フェルミを中心とした研究グループによって1930年末に数式表現として提唱された。その後、フレッド・レインズ(フレデリック・ライネスとクライド・カウワン(クライド・カワン)らは1953年〜1959年、原子炉から生じたニュートリノビームを水に当て、水分子中の原子核とニュートリノが反応することにより生じる中性子と陽電子を観測することで、ニュートリノの存在を証明した。 このことで少々疑問に思ったのは、そもそもどのような経験的事実がニュートリノの実在を証明するのかという点である。私が理解する限りでは、フェルミの仮説は、ニュートリノの数式表現である。専門的なことは全く分からないが、ある現象を数量的に予測する際、数式の中にある項や係数を入れると経験的事実にピッタリ当てはまることが明らかになった場合、その項や係数は数学的に表現された性質を持った「存在」である可能性もある。但し、単にある性質を別の性質との関係を記述しただけかもしれない。例えば、円周=(直径)×(円周率)という数式では「円周率」は確かに「存在」が、だからといって世界中のどこかに円周率という物質が存在するわけではない。素数とかeとか虚数なども皆同様であり、それらは具体的にどこかに存在しているわけではない。なので、ニュートリノの場合も、それを数学的に表現しただけでは、存在を証明したことにはならない。 では、レインズとカウワンの実験はなぜニュートリノの存在を証明したことになるのか? これも、ある性質を持った「存在」を仮定すればこういう現象が起こりますということを示しただけで、本当に実在の証明と言えるのかはよく分からない。 こうした疑問を広げると、そもそも光は存在するのか?という問題に発展する。ウィキペディアによれば、光子は電荷を持たず、質量はゼロであり、寿命は無いという。我々が光が存在すると確信するのは、光が当たった時にまぶしいと感じるという経験的事実に基づくものであるが、何かにぶつかった時に「目から火が出る」ようなこともあり、感覚の有無だけでは光の存在を説明することはできない。そんな光が、この世界の本質に関わっているということだから、ますます分からなくなる。光は実は存在しない、と仮定すると、この世界も実は存在しない、なので自分も存在しない、...ということになってしまうのだろうか。 とにかく、ニュートリノの存在証明についても、疑ってみる必要があるように思われる。レインズとカウワンの実験を光に当てはめると、「日光浴をしたら肌が焼けた、だから光は存在する」と言っていることと同じレベルではないかという気がする。 元の話題に戻るが、放送によれば、極小の原子の世界で確認されたニュートリノは、極大の宇宙の領域で新たな問いをもたらした。理論では、超高温超高圧の太陽の中心部では水素が核融合を起こしてヘリウムが作られる過程で大量のニュートリノが生まれると予想される。レイ・デイビス(レイモンド・デイビス)は、大量に降り注ぐ他の粒子の影響を受けない地下に40万リットル近くの塩素を満たしたタンクを設置した【ウィキペディアでは「サウスダコタ州の金鉱の地下に巨大な空洞をつくり615トンの四塩化炭素を満たし」と記述されている】。理論では、ニュートリノが塩素原子にぶつかれば放射性のアルゴンが観測される。しかし、この観測で確認されたニュートリノは、理論予想の1/3にとどまった。この謎は太陽ニュートリノ問題として知られるようになった。 次回に続く。 |