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ウォーキングコース沿いで見かけたレモンの実。「レモン色」にはならず日焼けしてしまったようだ。 |
【小さな話題】相対論と量子論から見た宇宙の始まりと終わり(1) 少し前になるが、宇宙の始まりと終わりを取り上げた興味深い番組を視た。
放送の内容に言及する前に、「宇宙の始まり」について、私自身の素人なりの考えを述べておく。結論から先に言えば、それは、 ●「宇宙の始まり」そのものが人工的な概念であって、自己矛盾を含んでいる。 というものである。 「宇宙の始まり」を論じるためには、その「始まり」の状態がどんなものであるかを説明する必要がある。しかし、「宇宙の始まりには○○があった」というのは、自己矛盾した前提である。「○○」には、「エネルギー」、「光」、「素粒子」、あるいは「空間」などを入れることができるが、そのどれであっても「○○」がなぜ存在しているのかが説明されていない。つまり「宇宙の始まりには○○があった」という説は、本当の宇宙の始まりではなくて、「○○」が出現してから後のことを述べているのに過ぎないのである。 では、「宇宙の始まりは何も存在しなかった」とすればよいのか。論理的におそらくそれが正しい。その主張は何かの観測に基づくものではなく、また理論的に導かれた帰結でもない。 ●宇宙の始まりは、その出発点は「何も存在しない状態」から議論しなければならない。 というように、議論の進め方の指針というべきものである。 しかし、「何も存在しない」というのが何を意味するのか、これもまた問題となる。何も存在しないというのは真空のことだと定義することはできるが、それは「真空が存在している」という点で自己矛盾になる。また真空にもそれなりの物理的な性質があり、「宇宙の始まりには、特定の物理的性質を持った真空があった」と主張すると、では、その物理的性質が存在する前はどうなっていたのか?という議論が出てくる。いっぽう、「宇宙の始まりには、いかなる物理的性質も存在しなかった」と論じることはできるが、何も無いところから何らかの変化が生じるプロセスを論じることは、素朴に考える限りは難しそうである。おそらくそれを可能にするのが神の数式なのだろうと思うが、私には難解過ぎて到底理解できない。 以上、私なりにいろいろと理屈をこねてきたが、以上に述べてきた議論というのは、人間が地球上で生活していくなかで体験的に身につけ、それが当たり前だと思い込んでいる素朴な因果論を前提にしている点に留意する必要がある。上に述べた「始まり」の定義、つまり、「何も無いところに何かが出現する」というのは、地球上での諸現象の仕組みに縛られた発想であるし、空間や時間についての考えもすべて日常生活で経験をもとにした素朴な宇宙観に基づくものである。実際には、空間も時間も、上記で暗黙の前提としていたような単純なものではなさそうだ。 もう1つ、考えなければならないのは、数式として記述可能な諸現象の関係を、宇宙の性質と独立して議論できるか?という問題がある。もちろん、議論するためにはその参加者が必要であり参加者は宇宙に存在していなければならない。そのことは十分承知しているのだが、要するに、いつどんな形で宇宙が誕生したとしても、そこで作られる数学的な法則は同じものになるのか、については別に考える必要がある。 もともと数学は、自然界の事物を抽象化し、違ったモノを同じと見なすところから発展したものであることは確かだが、そこで創られる数学の体系は恣意的に構成可能であり、物理世界からは独立している。数学の理論が観測事実によって証明されることはない。恣意的に構成された中で、物理的性質と共通性があり、汎用性・拡張性・予測力といった点で有用な理論が採用されているに過ぎない。 いま、数学理論自体は恣意的に構成可能であると述べたが、1つの理論体系の中では整合性があり、定理は、証明によって肯定されたり否定されたりする。その性質自体は宇宙のどこでも同様であろうと思われる。例えば、ある宇宙には、識別可能は固形物が複数存在していたとする。そうすると、その世界の住人は、その固形物を数えることができ、そこから整数論を体系化することができる。その場合、その宇宙がどんなものであっても、あるいはその住人がどんな形をしていたとしても、素数の分布は同じものになるはずだ。 もっとも、いまの物理現象を説明する数式で、宇宙の誕生時の現象が記述可能であるかという疑問は残る。全く別物の数式を使えば記述可能になるかもしれないが、その正しさが今の世界で行われる実験で実証できるかどうかは分からない。「神様がこの宇宙を創った」というような擬人的説明を上回る説明ができるかどうかも分からない。 次回に続く。 |