【小さな話題】10月に視聴したTV番組(2)「インフルエンザの流行」「金閣炎上」
昨日に続いて、10月に録画・再生で視聴したTV番組のメモと感想。
- 【10月25日 テレビ東京】60秒で学べるNews 『注意報レベル!インフルエンザ ワクチンと卵の意外な関係』
インフルエンザワクチンは最近では毎年11月頃に接種しているが、今年はすでに流行が前倒しになっているという。厚労省の調査(10月9日〜15日)によると、1医療機関当たりの患者数は、新型コロナが3.76人であるのに対してインフルエンザは11.07人にのぼっている。
二木芳人さんによれば、インフルエンザの流行が早まった理由としては、
- コロナ禍でインフルエンザの流行が無く、子どもたちが免疫を獲得する機会が無かった。
- 流行が始まったタイミングは学校の新学期にあたっている。コロナの感染対策が緩和されたため、マスク、うがい、手洗いといった子どもたちの感染防止行動にも変容があった。
- 外国人観光客の増加で、国外からウイルスが持ち込まれた。
などが考えられるという【文言の一部は改変】。
放送ではこのほか、卵を使ったワクチン生産とは別にmRNAワクチンの技術を使ったコロナとインフルエンザの混合ワクチンの開発が進んでいるという話題も紹介された。なおインフルエンザワクチン自体も4種類のウイルスの混合ワクチンであるということであった。
なお岡山市のインフルエンザワクチン接種情報はこちらにあり、私の場合は10月1日から12月31日までの間に1回の接種ができるようだ(2080円)。早めに予約しておきたい。
- 【10月20日 NHK総合】アナザストーリーズ 運命の分岐点『金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか』
金閣が僧侶の放火によって焼失しその後再建されたことは知っていたが、放火の背景に何があったのかについては何も調べたことが無かった。また放送で紹介されていた三島由紀夫と水上勉の小説は読んだことがない。
放送によれば、放火をしたのは修行僧だった林養賢。彼は舞鶴市成生のお寺『西徳寺』の子供として生まれた。父親は病弱で、母親がお寺を切り盛りしていた。母親は今で言う「教育ママ」で息子を大きな寺に入れたいと考えて勉強させた。父は亡くなる直前につてを辿って養賢を金閣寺に送った。住職である村上慈海の元で得度し大谷大学に進学したが、林養賢は次第に大学に姿を見せなくなり、寺の者ともうまくいかなくなった。欠席が続いたことで大学の成績は席次最下位まで下がり、留年確実となっていった。事件の1カ月前に学校に来るように説得に来た鈴木義孝に金閣寺の写真を手渡した。前夜の7月1日の晩、和尚の世話を終えた後は客人に誘われて碁を打ち12時頃に終えた。7月2日の午前3時頃に自分の布団や藁などを金閣寺に運び込むと、金閣寺と共に死ぬために火をつけた。しかし恐ろしくなって左大文字山に登り、睡眠薬を飲んで腹を切ろうとしたが死にきれず、夕方、腹から血を流しているところを逮捕された。
逮捕の翌日に母親がかけつけたが、養賢は面会を拒否。母親はその帰途、列車から保津川峡へ身投げした。母親の死は警察の配慮で養賢には伏せられた。林養賢は最後まで己の罪を悪いとは認めず、その年の暮れの裁判で懲役7年が言い渡された。
放送では続いて三島由紀夫と水上勉が全く別の観点からこの事件を取り上げ、また両作品を比較した『金閣寺の燃やし方』を執筆した酒井順子さんが登場。さらに当時の住職だった村上慈海のその後の様子が紹介された。
林養賢は、精神状態が悪化し意思疎通ができなくなり、1955年に金閣が落慶した年に釈放されたもののそのまま病院に入院し半年後に結核で死去した。金閣寺の仏間には林養賢や母親の位牌も祀られている。村上慈海は放火事件から35年後の1985年に死去した。
放送の終わりのところでは、事件前、養賢は慈海に生きることの意味を問うたというエピソードが紹介された。公判調書によると、慈海は「生きることは無意味なんだ」と答えた。このことについて玄侑宗久さんは
我々は何で生きているのかを考えると、生まれちゃったもんで生きてるんですよ、ただそこにいろいろな意味が欲しいですよね。でも本来は(生きることに)意味なんか無いんですよ。おそらく慈海和尚はその本来のことを説いたんではないか。言葉少なに。そしてそれが(養賢には)ショックだったんじゃないか。何のために生きてるの?って言われて、ただ生きてるんだって答えられる人は珍しいですから。だからやっぱりいろんな生きがいがでっち上げられていくんですけれど、そこまでちゃんと話してくださらなかったんじゃないか。
と語っておられた。
ここからは私の感想・考察になるが、この事件では貴重な国宝が焼失してしまったが、人の命に関しては養賢の母親一人だけが失われたというところに何ともやるせないところがある。もっとも養賢にとっては放火は金閣寺を殺すという意味を持っていたのかもしれない。いずれにせよ、放火の動機が強い思い込みによるものなのか、それとも精神的な病が引き起こした突発的なものであったのかは分からないように思う。養賢の公判調書に記されている内容はあくまで事件後の回想であり、それが事件そのものの原因を反映しているのか、それとも事後的に再解釈されたものなのかもよく分からない。
国宝を放火するということは絶対に許せないことではあるが、敢えて視点を変えて経済効果という面から捉え直してみると、金閣は再建されたことでより多くの観光客を呼び込んだという可能性もあるように思われる。というのは、多くの観光客、特に外国人旅行者にとっての金閣の魅力は、その古さではなくて、日本庭園の中に立つ金箔の建物の美しさにあるからだ。こちらの写真が示すように、積雪時の金閣は特に美しい。もし、金閣が国宝として古いまま残っていたとしてもこれほどの美しさはアピールできなかったのではないかと思われる。トリビアとしてたまに取り上げられることがあるが、金閣寺(鹿苑寺)は世界遺産ではあるが、金閣自体は国宝ではない。このことを知らずに、「国宝金閣」として拝観する人も少なくないようだが、建て替えであっても、室町時代の権力者が理想とした風景がそこに再現されているのであればそれがいちばんという気もする。
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