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ウォーキング中に見かけた津山線『SAKU美SAKU楽』。
こちらの情報によれば、2024年3月〜9月は、土日祝日に1日1往復運行されており、上りは岡山10:55発、下りは津山12:56発となっており、撮影地点では11時頃と14時25分頃に眺めることができる。 |
【小さな話題】3月に視聴したTV番組(2)こころの時代『185頭と1人 生きる意味を探して 吉沢正巳』 3月に視聴したTV番組のメモと感想。その2。今回は、3月10日に初回放送された、NHK『こころの時代: ●『185頭と1人 生きる意味を探して 吉沢正巳』 についての備忘録。 放送で紹介されたのは、原発事故の被害を受けた福島県浪江町の牧場であった。自らを『牛飼い』と名乗る吉沢正巳さん(70)が育てていたのは、本来であれば2歳半あまりで屠殺され牛肉として食卓に上がるはずだった肉牛であった。しかし、そうした牛たちは福島原発による放射能汚染で出荷されなくなった。吉沢さんはそうした牛たちの世話を続けている。 素朴に考えれば、もともと経済動物(産業動物)として飼育されていた牛は、肉牛としての価値が無くなった時点で処分・廃棄されるものと思われるが、それを拒否してずっと世話をし続けることには、生きる意味を探すという背景があったようである。 大地震・大津波・メルトダウン・全町避難・1号機爆発というなかで、この地域で飼育されていた牛はそのまま取り残された。牛舎に繋がれていた牛たちは、水もエサも与えられず、餓死した。こうした命の扱い方は最悪。もちろん牛飼いたちは機械的にそれを選んだわけでは無かった。中には泣いていた人もうなされていた人もいたと思われるが、現実に牛を連れて避難するというのは不可能であった。 いっぽう避難する時に牛を逃がした農家も多かった。しかし野生化した牛もあったため、農家の同意を得て殺処分された。 吉沢さんはその方針を拒み、被爆した牛の飼育を続けた。さらに行き場を失った他の牧場の牛約100頭も受け入れた。1日約3トン(牧草の場合)のエサは、近隣の農家で不要となった牧草、さらには全国スーパーからの廃棄食材、リンゴジュースのカスなどを引き取るなどして確保されている。それでも餌代は月に30万円はかかる。これは東京電力からの賠償で得た貯金、吉沢さん自身の年金、支援者からの寄付などでまかなわれているという。毎日の大半は餌やりと糞の片づけに追われ、365日休むことができない。 この牧場を開いたのは父親の吉沢正三さんであった。正三さんは満蒙開拓団に参加し引き揚げ後は牛1頭から牧場を始めた。当初は千葉県、その後、さらに広い土地を求めて1970年に浪江町に移住した。しかし10年ほど経った時に作業中の不慮の事故で亡くなった。その後、息子の正巳さんは、母親から父の正三さんの知られざる過去の話を聞いた。正巳さんがまだ生まれる前、満州から引き揚げる際、正三さんたちはソ連軍に追われて食うや食わずで歩き通した。極限状態になった時に2人の子どもと義理の母が動けなくなった。正三さんは家族を敵に殺されるぐらいならと、みずからの手で殺めたという。この「仏にもなるし鬼にもなる。だけど命を粗末にしてはいけないし、酷い命の扱いはしない」という精神が肉牛の飼育、そして今の185頭の飼育に受け継がれている。満蒙開拓と引き揚げも、今回の原発事故も国策によってもたらされたものであり、その中で命がどう扱われていたのかが問われている。 牧場の牛は去勢されたオスばかりなので殖えることはない。保健所による年に一度の頭数検査によれば、直近の頭数は185頭であると確認された。頭数検査の日には吉沢さんに牛を預けた元畜産農家もやってくる、。一頭一頭に飼い主一人一人の思いが込められている。 吉沢さん、原発事故から4カ月後に、命尽きるまで牛を飼い続けることの意味を広く知ってもらうためにこの牧場を『希望の牧場』と名づけた。吉沢さんはこの『希望』について、 ●絶望状況にあるなかで何の希望があるだろうかと考えた。だけど、希望というのは、「与えられる」とか「用意する」とか「くださる」とか「待ち望む」ということではない。希望というのは自分から希望とは何かを実現する行動、その道の中に見えてくる、それが希望じゃないか。現実の中で格闘する、闘う、行動する、自分から努力する、その中に自分なりの希望がだんだん見えてくる。 と語っておられた【長谷川による改変あり】。 吉沢さんの牧場には一時期は多くの関心が集まりボランティアとして飼育に参加する人たちもいた。また吉沢さん自身も脱原発の活動に取り組んだ。しかし、時が経つにつれて被災地に向けられる社会の関心は徐々に薄れ、ボランティアの数も当初の5分の1に減った。このことについて、吉沢さんは、 ●いずれそれは風化する。嫌な話は考えない、聞きたくない、というように話は行ってしまう。【中略】嫌なものは避ける、自分の問題と切り離して、よそ事、ひと事、つまり自分の未来とは関係が無い、という自己防衛本能に基づいてみんなは生きているのではないかと思う。 と語っておられた【長谷川による改変あり】。さらに、牛を生かし続けることの意味については、というように率直に心情を語っておられた【長谷川による要約・改変あり】。 ●自分らのやっていることが意味があるのかないのか、あやしい気持ちになったことはある。「意味が無いことが分かった時の意味」という哲学的な迷路みたいになる。自分たちの存在する意味は無いのじゃないかと分かった時の空しさ、意味が無いことの意味とはどういうことなのか混乱してくる。みんなが避難した中で踏みとどまる意味は何なのか考えた。 吉沢さんの活動を理解し支えているのは妻の靖子さん。正巳さんが牧場に泊まり込んでいた時には食生活が不十分で缶ビールに頼っていた。現在は野菜多めの食事を自宅でとることができている。また震災直後からボランティアを続けている人もおられ、それぞれの思いが語られた。 放送の終わりのあたりでは、老衰のような状態で倒れ最期を迎える牛の様子が紹介された。屋外で倒れていた牛は牛舎に運ばれる。衰弱した牛の傍らに牧草が置かれると、その牛は倒れたままでもぐもぐとそれを口に入れたが、9日後にその命はついえた。 肉牛という商品でなくなった牛たちが生き続ける。その日は最後の1頭まで続く。吉沢さんは、 ●その矛盾から逃げてはいけない、その矛盾の中でどうしたらいいかを本気で考えて道をさぐるしかない。【中略】 牛は俺が居なければエサは食えないし、俺は日々、牛たちにエサを与えるために頑張る。その日々はやることがちゃんある。牛飼いとしての存在はたとえ原発事故があっても今なおある。原発事故から13年、これから先20年後にも牛たちはおそらく40〜50頭は生き残ると思う。牛の寿命イコール俺の寿命。牛とともに生きる、やがて俺も牛と共にいなくなる。そういう牧場があったということで俺はいいと思う。 と語りながら【←長谷川による要約改変あり】仕事を続けておられた。 |