55 じぶん更新日記
じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



06月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る




クリックで全体表示。



 こちらの動画で横断歩道の道路標示の改正が検討されているということを知った。従来は白線と空白の幅は45〜50cmと定められていたが、改正案では空白の間隔を45cm〜90cmというように広げることが可能になる見込みであるという。間隔を広げる理由としては、
  1. 横断歩道は全国に約116万本があり、限られた予算で維持管理することが難しい。間隔を90bmまで広げれば、節約分で白線を引き直すことができる。
  2. 現行では路面にわだちなどの凹凸があっても45cm間隔で引く必要があったが、改正されれば道路状況に応じて間隔を広げることができる。
などがあるという。
 このことで思ったが、ウォーキングコース沿いには、道路上の白線や文字が殆ど読み取れない所がある。写真は半田山植物園近くの市道の交差点。
  1. 写真左:「止まれ」と書かれているがかすれていて判読不能。
  2. 写真右:横断歩道の白線の一部と左折禁止の表示がかすれている。
この交差点の踏切側は一方通行になっておりこの市道から左折することはできないが、たまに進入・逆走する違反車を見かけることがある。道路脇の標識をちゃんと見ていれば違反はしないはずだが、道路上の矢印だけでは読み取れない可能性が高い。



2024年6月9日(日)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「韻を踏むと気持ちよくなる理由」(1)

 昨日に続いて、6月7日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. 横断歩道を渡るときに鳥の声が聞こえるのはなぜ?
  2. 韻を踏むと気持ちいいのはなぜ?
  3. 学ランの「ラン」ってなに?
という3つの話題のうち2.の『韻』について考察する。この話題は一般的な『韻』についてではなく、

●ラップは韻をふんで歌っているが、韻を上手に踏んでいるのを聞くと気持ちいいのはなぜ?

ということを中心に解説された。

 ちなみに私は音楽については全くの素人であり、『ラップ』についてはそういう名前を聞いたことがあるという程度のことしか知らない。改めてウィキペディアを参照したところ、
  1. ラップ (rap) は、音楽手法、歌唱法の一つ。「韻律、リズミカルな演説、ストリートの言葉」を組み込み、バックビートや伴奏など様々な方法で唱えられる。ラップの要素には、「内容」(何が言われているか)、「フロウ」(リズム、韻)、「話し方」(終止、声調)が含まれる。
  2. ラップは、メロディをあまり必要とせず、似た言葉や語尾が同じ言葉を繰り返す、韻(ライム)を踏むのが特徴的で、口語に近い抑揚をつけて発声する。曲の拍感覚に合わせる方法(オン・ビート)と合わせない方法(オフ・ビート)がある。レゲエにおけるディージェイが行うトースティングはよく似ているが、抑揚の付け方が異なり、トースティングは独特のメロディを付けることが多いという違いもある。
  3. ラップは、メロディをあまり必要とせず、似た言葉や語尾が同じ言葉を繰り返す、韻(ライム)を踏むのが特徴的、口語に近い抑揚をつけて発声する。曲の拍感覚に合わせる方法(オン・ビート)と合わせない方法(オフ・ビート)がある。レゲエにおけるディージェイが行うトースティングはよく似ているが、抑揚の付け方が異なり、トースティングは独特のメロディを付けることが多いという違いもある。
といった特徴があることが分かった。しかし、ラップの愛好家にはまことに申し訳ないが、私には坊さんがお経をあげているように聞こえ、耳障りな感じがした。なので「ラップで韻を踏むとなぜ気持ちがいいのか」という問いは、少なくとも私には当てはまらない。むしろ、「言葉を繰り返されると耳がざわついてイライラしてくるのはなぜか?」というように問いかけを変更してもらいたいところである。

 さて放送では、「リズムと驚きを同時に味わえるから」が正解であると説明された。
 言語学を研究している川原繁人さん(慶應義塾大学)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
  1. 韻を踏むとは簡単に言うと「似た響きの音を繰り返すこと」。歌やラップ、詩やキャッチコピーなど、さまざまなところで使われている。例えばYOASOBIの『アイドル』では、「はいはい あの子は特別です」のあと「です」が2回、そのあとは「わけない」や「洒落臭い」というように「ai」が連発されている。【なお、ネットで検索したところ、別の部分では「メディア」、「だけは」、「キャリア」、「愛だ」、...というにすべて「a」で終わっているところもあった。】
  2. 韻には脚韻と頭韻の2種類がある。脚韻とは言葉のおしりの母音を揃えること。頭韻は言葉の頭で繰り返す韻。
    • 日本最古の歌集「万葉集」でも韻が使われている。例えば天武天皇の
      ●淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三(淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野(よしの)よく見よ 良き人よく見つ)
      や、江戸時代の米沢藩主、上杉鷹山の
      ●為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり
      などは頭韻。
    • 『東京ブギウギ』の歌詞の「ブギウギ」、「ウキウキ」、「ズキズキ」は、「u-i-u-i」の脚韻。
    • 毎年掲げられる都道府県のキャッチコピーでも「ひたむき まえむき いばらき」とか「うつくしま、ふくしま」というように脚韻で県をアピールしている。
  3. 私たちは奈良時代まで現代まで韻とともに生きている。このことも、韻が人間の心を気持ちよくする性質を持っていることが分かる。
  4. 韻から生まれるリズムこそ、気持ちよくさせる要因になっている。
  5. 韻が気持ちよくさせるもう1つの要因は「制約から生まれる驚き」。
    • 例えばSEKAI NO OWARIの「Habit」では、「動物」、「好物」、「どう?普通」、「こうふつふつと」というように「o-u-u-u」という韻が踏まれているが、この歌詞は多くの制約の上に成り立っている。すなわち、「メロディー内におさめる」、「頭をそろえる」、「おしりをそろえる」、「歌詞の意味が通る」というように多くの制約を乗り越えており、スポーツと同じように、驚き・達成感を感じる。
    • この驚き×リズムが我々は気持ちよく感じられる。
 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、まず韻は言語によって大きく異なっているように思う。
 私が韻という概念を初めて知ったのはたぶん漢詩を習った時だったと思う。五言絶句・七言絶句などでは文字数が揃っているだけでなくちゃんと韻を踏んでいる。しかし、日本語に書き下した時にはそれらは消失する。またウィキペディアによれば、明治期以降に日本で創作された漢詩は、中国語での発音を考慮していないため、韻律が本場中国の基準からすると破格であり、漢詩として評価されないものが多いと言われる。英語での韻の踏み方も中国語に似ている。

 これらに比べると、日本の和歌などでどこまで韻が重視されていたのかは少々疑問に思う。確かに上掲の天武天皇や上杉鷹山のように頭韻を踏んだ歌もあるがそれらが他の歌よりも高く評価されたというわけではあるまい。同じ音が繰り返されているというよりも、例えばカキツバタの花から、
唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
というように「か・き・つ・ば・た」が読み込まれていれば技巧的に高く評価される。あるいは、
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
という歌のように、同音異義語を活用した技巧が高く評価される場合もある。

 なので和歌の世界では頭韻や脚韻はそれほど重視されて来なかった。というかもし重視されていたら、万葉集やその後の歌集、百人一首などでもっと、韻を踏んだ歌が多数採用されていたはずだ。

 そもそも日本語は母音が「aiueo」の五種類しかないので、脚韻を踏まなくてもおしりの部分が似たような発音で終わることが多いように思われる。また、文法上、動詞や形容詞などの述語が文末に来るため、意識しなくても脚韻を踏んだような形になりがちである。例えば、上掲のYOASOBIの『アイドル』では「です」や「ない」が脚韻であると紹介されていたが、別段脚韻を意識しなくても、日本語では「です」や「ない」は文末に来るのが当たり前だ。同じく放送の中で紹介された吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』で「無ェ」が連発されているのも、日本語の否定文なら当然であり、羅列すれば必然的に脚韻を踏んだことになる。

 ということで、脚韻を踏むように意図的に名詞を選んだ漢詩や英詩に比べると、日本語の詩や歌では脚韻はそれほど意識されなかったのではないか、また多くは韻というよりも掛詞(やダジャレ)が多かったのではないかと私には思われる。

 次回に続く。