じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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そろそろ猛暑が終わりそうな気配になってきたが、気になるのは台風10号の進路である。8月22日朝6時の予想によれば、8月27日以降には岡山方面への接近の可能性がある。予想進路はまだまだ不確実だが、この先の予報に注目する必要がある。


2024年8月22日(木)




【連載】『3つの自己』の再考(1)

 ACTで言われている『3つの自己』(あるいは自己の体験の3つの側面)について、別の観点から考え直してみたいと思う。
 自己体験を3つの側面から捉えることについては、トールネケの『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ―言語行動理論・ACT入門―』の第5章のあたりに詳しく解説されておりそれなりに理解したつもりであったが、イマイチしっくりこないところもあった。それは、ACTで論じられていた『自己』というのは、基本的には、精神的に問題を抱えた人へのセラピーを重視したツールのようなものであり、そこで提唱されている生き方を実践したからといって、必ずしも最良の人生を実現できるとは限らないように思われたからであった。じっさい、

三つの自己の体験尺度の作成および信頼性と妥当性の検討(柳原 茉美佳, 嶋 大樹, 齋藤 順一, 川井 智理, 熊野 宏昭 『行動療法研究』, 2015年, 41巻)

などを見ても「精神的苦痛を促進・緩和する自己の体験についての理解」という観点が重視されており、あくまで臨床的に有用なツール探しとして研究が進められているように思われる。

 上記は、日々健康増進活動を実践したからといって必ずしも最良の人生にはならないことと同様である。YouTube動画などでは「○○すれば健康に良い」とか「○○を食べれば健康に良い」といった提案がいろいろなされているけれども、毎日そういった100個や200個にも及ぶ項目を実践したからといってそれが最高の人生になるとは限らない。
 特に気になるのが『概念としての自己』、あるいは『物語としての自己』についての捉え方である。こちらの解説記事に、
■「概念としての自己」に対するとらわれ

「概念としての自己」とは、「私は〇〇だ」という文章の内容で自分を捉えること(自分に対する思考)です。概念としての自己は、適度な距離感で付き合えば、自分の人生を豊かに送るヒントをくれます。例えば「私は強い人間だ」という自己像を持っていれば、自信を感じながら日々を過ごすことができます。しかし、そこに過剰に囚われると(思考と現実が混同されると)、自分が弱っている時にも「私は強い人間だ」という自己にしがみつき、必要な助けを求められないといった問題が起こる可能性もあります。逆も同じで、「自分は頭が悪い人間だ」と思い込むことで、自分をよりよくするチャンスを逃しているかもしれません。
と記されているように、『概念としての自己』にはメリットとデメリットの両面があると指摘されているが、臨床的に見れば、デメリットのほうが問題視されている。しかし、だからといって『概念としての自己』の影響を無くしてしまってよいものかという疑問も出てくる。

 もちろん、『巨人の星』の主題歌のような、

思いこんだら 試練の道を 行くが男の ど根性
【中略】
やるぞどこまでも 命をかけて 父ときたえた ど根性


よいう生き方が最良かどうかは分からない。
 しかし、宗教の世界では、それぞれの宗派の教義に基づいて、理想とする『概念としての自己』に近づくために日々修行を積んでいるように見える【中には『概念としての自己』に囚われないための修行をする宗教もあるだろうが、論理的にはこれもまた1つの概念】。
 このほか私が特に関心をむけているのが、終末期におけるQOLやQOD(Quality of Dying)における『概念としての自己』の役割である。

ということで、不定期ながら次回に続く。