じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡山では9月8日の16時20分過ぎから局地的な大雨に見舞われた。雨雲レーダーを見ると広域表示では岡山近辺には雨雲が無いように見えてしまうが(画像上段)、よく見ると赤い色の強い降水域がスポットのように描かれていた。
 16時から16時30分までの推移を見ると(画像下段)、この雨雲は16時10分頃からわずか15分余りのうちに急速に発達したことが分かる。
 じっさいには一時はバケツの水をひっくり返したような大雨になり大雨警報が発出されたが、短時間で降り止んだため、雨量は9ミリにとどまった。またこの雨で16時時点で33.9℃だった気温は17時には28.0℃まで低下した。


2024年9月9日(月)





【連載】チコちゃんに叱られる! 「エスカレータで歩く人の圧に屈しない」「お祭りのお面」「算数を好きになるには」

 昨日に続いて、9月6日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. ドラムを1人で叩くのはなぜ?
  2. 【罰ゲーム】湯飲み茶碗の下に敷く受け皿のことを何と言うか?
  3. 右利き 左利きがあるのはなぜ?
  4. 【休憩中の話題】小林聡美はエスカレーターを使用する際に立ち止まっているが、後ろから歩いて上ってくる人の邪魔になる。そういうが歩く人の圧に屈しないためにどうしたらいいか。
  5. お祭りでお面が売られているのがなぜ?
  6. 【ひだまりの縁側で…】どうすればさんすうがすきになれますか?
という6つの話題のうち、4.以降について考察する。

 まず4.のエスカレーターの立ち位置については、「東京は左、大阪は右」という慣習があり、このWeb日記でも海外の観察事例を含めて何度か取り上げたことがあった【古い記事としては2002年12月21日】。 。もっとも最近では事故防止の観点からエスカレータの上を歩かないように呼びかけが行われている地域もあり、急ぐ人のために左右どちらかを空ける必要はないという考えも浸透しつつある。放送でも、歩こうとする人の圧に屈することなく堂々と立っていればいいというような結論になった。

 次の5.のお面については、放送では「誰だかわからなくなってはっちゃけるため」が正解であると説明された。

 民俗学や文化史の研究をしている斗鬼正一さん(江戸川大学)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
  1. お面の歴史は縄文時代にまで遡る。縄文時代の遺跡からは土で作られたお面、弥生時代の遺跡からは木で作られたお面が発掘されている。
  2. これらの時代の頃は、お面は宗教的な儀式で使われていた。
  3. 古代の人々は森や海などの自然には神様が宿ると信じていた。正月や田植えの時期になると神が訪れるとされていたが、神の姿は実際に見えないため誰かにお面をかぶせて神様に変身させていた。
  4. さらに中国から散楽という大衆芸能が日本に入ってきたことで、ここから能や狂言が発展。200種以上の面が発展した。しかし能や狂言は貴族の楽しみで、一般市民には馴染みがなかった。
  5. 江戸時代に徳川吉宗が行った「享保の改革」により贅沢禁止が言い渡され、ガス抜きのために花見などが奨励された。この時花見ではしゃげるようにお面が流行した。その中にはキツネのお面をかぶって仮装する人もいた。当時は身分制度が厳しくぜいたくも禁止されていたので、お面をかぶり正体を隠すことで日頃のストレスを発散していたのではないか。
  6. さらに江戸後期には目鬘(めかずら)という顔半分を隠すお面が流行。これらがお花見よりも人が集まるお祭りで販売されるようになった。
  7. お面は張り子製が主流だったが昭和に入りセルロイド製が主流になっった。
  8. お面をかぶりはしゃぐというのはイタリアの「ベネチアカーニバル」でも行われている。【なぜか、『組曲「コーカサスの風景」第1番:酋長の行列』の音楽が流れていた】。
 お祭りで売られているお面については私も記憶がある。あの時代はセルロイドのおもちゃが多かった。
 お面とはやや異なるが、子どもの頃に流行っていたドラマに『怪傑ゾロ (テレビドラマ)』があった。もっとも、口や鼻を隠さないお面だけでなぜ正体がばれないのか、ずっと疑問に思っていた。

 最後の6.の「どうすればさんすうがすきになれますか?」というのは、あやなさん(8歳)から寄せられた、

わたしはさんすうがにがてです。とくにひっさんのくり上がりとかくり下がりをつかうひっさんがにがてです。どうすればさんすうがすきになれますか。

という質問であった。これに対しては、西成活裕さん(東京大学)の「受け売り情報」として、
繰り上がり、繰り下がりの筆算はお金で考えると分かりやすくなる。例えば「12ー9」という繰り下がりの場合は、10円玉1枚と1円玉2枚のうち10円玉を1円玉10枚にくずしてそこから9円を引くと考えればよい。あと、算数を好きになるには自分の好きなものを絡めるといい。例えばダンスが好きだった場合は、30分間のダンス練習をするとき3分間の曲で何回踊れるか?という計算ができる。学校で学んだ「算数は使える」と実感すると算数が楽しくなる。
というような情報が提供されたが、うーむ、「使える」と実感すれば好きになるものだろうか?

 ここからは私の感想・考察になるが、まず、中学・高校以降で習う数学と、小学校で習う算数は別物である。中学で習う幾何などの証明問題や、YouTubeの解説動画で紹介される整数問題や未解決問題などは、本来それ自体が面白い。これに対して、小学校で習う計算問題は、いろいろな操作を適確に組み合わせる作業のようなもので、日常で役立つかどうかにかかわらずそんなに面白いはずがない。それでもなお「日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てる」力が役立つと考えられていればこそ、膨大な時間の授業、宿題、ドリルなどで学ぶ必要があるとされているようである。

 ではどうすれば算数を好きになれるのか?と言うことだが、少なくとも初期段階では、
  • 90%くらいは自力で解けるようなレベルで練習し、100点になったらレベルを上げるというように、成功体験を重ねる中で少しずつ力をつけていく。
  • レベルアップのたびに、適切な称賛を行う。
というように、練習行動を強化していく必要がある。なお「適切な称賛」というのは飴玉で強化することではない。レベルアップの際の認定証でもよいし、認定証とともに授与される記念品(認定証の文字入りの文房具など)。
 こうして、計算問題の力がアップしていくと、算数のテストでも計算問題だけは確実に正解になることで全体の得点もアップし、「自信」がつくようになる。その結果、計算問題以外の領域もゆとりを持って学ぶことができるようになる。

 こうした考え方は、実は長崎に住んでいた頃(1986〜1991年頃)、公文公先生が長崎で講演をされた時に聞いた内容に基づくものであり、行動分析学の原理にも適っている。但し、いま述べた学習を積み重ねることで、受験数学はある程度乗り切れるとは思われるが、数学を好きになるためには自分で定理を考案したり、何日もかけて難問にチャレンジするという機会も必要かと思う【←といって多少数学が得意になったという程度で数学科などに入学すると、才能不足に悩まされる恐れもある】。