【連載】チコちゃんに叱られる! 「クレーンゲームのぬいぐるみ」
11月29日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この日は
- なぜクレーンゲー厶にぬいぐるみが入っている?
- なぜ1日は24時間?
- 炊き込みごはんはそもそもなぜ炊き込んだ?
- 【ひだまりの縁側で?】長期間、日記をつけること。
という4つの話題が取り上げられた。本日はこのうちの1.について考察する。
さて1.の疑問だが、放送では「小形さんが韓国で山積みのぬいぐるみを全部買ったから」が正解であると説明された。
クレーンゲームを製造する大手ゲームメーカーの役員、山下滋さん&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。なお、放送では『大手ゲームメーカー』の名前は伏せられていたが、取材に訪れた際に、本社入り口にSEGASammyのロゴが映っており、またそのあとの写真資料でも繰り返し「画像提供:SEGA」と表示されていたことから、会社名は見え見えであった。
- クレーンゲームを最初に取り入れたのは弊社(=SEGA)。当時取締役だった小形武徳さんの活躍によるところが大きい。
- 日本がディスコブームで盛り上がっていた1980年代、子どもたちはゲームに夢中だった。
- 当時のゲームセンターの内部は、暗い、汚い、怖いの3Kで、不良の溜まり場になっており、子どもには近寄りがたい場所だった。
- 当時からクレーンゲームはあったが、景品はタバコやライター、ネクタイピンなどで子どもや女性は見向きもしなかった。
- そんななか46歳で【『セガ・エンタープライゼス』の】取締役に就任した小形武徳さんは部下たちを誘って蒲田の焼き鳥屋で「日本も豊かになって遊びの文化が中心的産業になる。」と、夢を語った。
- 1985年、ピンク色の新型クレーンゲームが開発された。しかしゲームセンターが風営法の規制対象になったため、警察庁が決めた景品の価格の上限は200円(1986年当時)であり、この価格ではチープな雑貨系しか景品にできなかった。
- 1986年、小形さんは韓国・ソウルの明洞の街で、ゴザの上にぬいぐるみを山積みにして売っている露天商のおばさんに偶然出会った。小形さんはこれなら女性や子ども向けの景品にできると閃いた。
- ぬいぐるみの値段は500ウォンで、当時のレートでは日本円で100円であった。露天商のおばさんと交渉の末、山積みのぬいぐるみを全部買い取ることと引き換えに仕入れ先を教えてもらった。
- 小形さんは仕入れ先で大量のぬいぐるみを購入し日本に送った。これが大当たりして、ぬいぐるみを提供する『セガ・ユーフォー・キャッチャー』はローティーン・ギャルの集客に最も効果的なアミューズメントマシンとなった。
- 1997年に副社長に就任した小形さん(当時53歳)は、「いろんな試行錯誤の中で最後に残ったのがぬいぐるみ。非常にかわいらしく、ノスタルジアを感じさせる商品として受け入れてもらえるんじゃないか。」と語っておられた。
- 小形さんは、その後、プリントシール機『プリント倶楽部』の大ヒットにも貢献し、ゲーム業界を牽引し続けた。かつて3Kと言われたゲームセンターは今では女性や子どもが安心して楽しめる場所になっている。
- なお、クレーンゲームにぬいぐるみを入れた1986年当時の景品価格の上限は200円であったが、その後、500円、800円となり、2022年からは上限が1000円に変更されていると補足説明された。
ここからは私の感想・考察になるが、クレーンゲームの歴史についてはウィキペディアにも詳しい説明があった【要約・改変あり】。
- クレーンゲームの起源ははっきりとはしないが19世紀末から20世紀初頭の米国にあると考えられている。当時はパナマ運河の建設中であり、その開削に使用された蒸気シャベルがクレーンゲームのヒントとなった。
- 1926年、「エリーディガー」が特許を得て生産され始めた。諸説あるものの、主にこれがクレーンゲームの始祖と考えられている。当時は小さな品物やお菓子などが景品で、電気を使わない手動式のクレーンゲームだったため管理がたやすく、お祭りや移動遊園地などでよく利用された。1930年代には駅やホテルなどに置かれ始めた。
- エリーディガーを改良したマイアミディガーと言うクレーンゲームも、1932年に特許を取得している。こちらは電力を使用し、クレーンがより広範囲に動くようになった。
- 日本での歴史はテレビゲームより古く、1965年にはタイトーから発売されている記録が残っているほか、同年には後のセガサミーグループ(セガの前身である「セガ・エンタープライゼス」、サミーの前身である「株式会社さとみ」)もクレーンゲーム機市場に参入しており、1960年代には既に複数のメーカーによる市場が形成されていた。そして、1970年の大阪万博では古河パビリオンで「コンピュータ・ハンド・ゲーム」という大型のクレーンゲーム機が出展された。
- 1980年代後半からぬいぐるみ等が景品となり、アーケードゲームが衰退気味となったことから、テレビゲームにかわるアーケードゲームを探していた業界がこれに着目。商品の値段が安ければ風営法に接触しない事もあって、現在の様なクレーンゲームに成長して行った。
- 2000年代以降はPCやスマートフォンで筐体を遠隔操作するオンラインクレーンゲームが登場した。プレイヤーは獲得した商品を宅配にて配送してもらうシステムであり、店舗内にて遊ぶわけではないので風営法などには抵触しないとの見解が経済産業省から発表され、手軽に遊べることや24時間いつでもプレイ出来る事が追い風となり、2017年現在では約20社が参入している。
- 日本アミューズメント産業協会によれば、ゲームセンターにおける売上の半分以上がクレーンゲームであるという。
ちなみに、私自身は学生・院生時代(1970年代)は日々の動物実験が終わるとパチンコ(たまに雀球)に熱中していたが、クレーンゲームで遊んだことは一度も無かった。景品にぬいぐるみが登場したという1980年代後半は子育ての時期となり、子どもが遊ぶぬいぐるみは買ったことはあったが、クレーンゲームで手に入れようとは思わなかった。
クレーンゲームで景品のぬいぐるみを手に入れるシーンのあるドラマとしては『屋根部屋のプリンス』が記憶に残っているが、これは2012年のドラマであり、1986年当時に明洞の露天商が山積みにして売っていた時代とは四半世紀以上あとのことになる。韓国と日本のどちらのほうがぬいぐるみ人気が高いのかは未確認。
次回に続く。
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