じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 1月21日(火)は半田山植物園が休園日のため、代わりに旭川土手を歩いた。写真上はお馴染みの洗堰。遠くの山は龍ノ口山。12月以来殆ど雨が降っていないのに水量が多いのは上流域で降雪があるためだろうか。
 写真下は用水で見かけたカモ。羽根の特徴からカルガモと思われる(たぶん)。
 それにしても、徒歩圏内でこのような自然に接することができるのはありがたいことだ。東京・世田谷で生まれ育った私だが、こういう自然を捨てて住宅地と道路ばかりの東京に戻って住みたいとは思わない。


2025年01月22日(水) )




【連載】NHK『ダークサイドミステリー 神秘の古代ミステリー 徹底検証!日本・ユダヤ同祖論(7)佐伯好郎、酒井勝軍、小谷部全一郎

 1月17日に続いて、2024年11月29日に再放送された表記の放送についてのメモと感想【初回放送は2023年7月13日】。

 前回の日記ではマクレオド『日本古代史の縮図』(1875年)を取り上げたが、その後、日本人からも「日ユ同祖論」の元となる説が発表されている【以下敬称略】。

 まずは言語学者・歴史学者の佐伯好郎(1871-1965)が記した『太秦(兔豆麻佐)を論ず』であり、佐伯は、京都・太秦に秦氏が建てた大辟(おおさけ)神社とはダビデ王をまつる神社であるという論説を展開した。三柱鳥居やいさら井など、今でも発せられている秦氏に関連づけたユダヤ同祖説は、佐伯好郎の説をほぼそのまま踏襲したものであるという。

 次に紹介されたのは、『ユダヤ陰謀論』と関連づけられた日ユ同祖論であった。そのもととなるのは20世紀初頭にロシアなどで出回った『シオン賢者の議定書』であるという。ユダヤ人の指導者たちが世界中の国家を転覆させ世界を支配する陰謀論を相談したという内容。これは西洋で長年ユダヤ人を差別してきた反ユダヤ主義に基づく偽書であった。ここまでの話では、ユダヤ人を悪者にしている『ユダヤ陰謀論』と日本人をユダヤ人と結びつける『日ユ同祖論』は相容れないように思われるのだが、実は逆の発想から日ユ同祖論を展開した人物がいたという。それがキリスト教伝道者の酒井勝軍(1874-1940)であった。
 酒井は語学が堪能で軍人の通訳を務めた人物。『シオン賢者の議定書』の存在を知った酒井は、さまざまなユダヤ人陰謀論の本を出版。しかしそこでは、ユダヤの陰謀に警鐘を鳴らす一方で、全く新しい世界が生まれるという期待もにじませていた。『猶太民族の大陰謀』(1924年)には、

猶太人の世界征略なるものは猶太民族の侵略的慾望より生れ出でたるものに非ずして天地の造物主にして主宰者なる神の命令に由りて發したるものなりとす

とした上で、

ユダヤの陰謀によって世界は終末を迎えるが、神に選ばれし民・ユダヤは救済される。...神が治める時代が復活し、ユダヤと同じく神に選ばれた日本人が台頭する。

と論じた。その後の『猶太の七不思議』(1924年)や『神州天子国』(1928年)においても、日本が「神エホバの秘蔵国』であり世界に君臨しうる資格を公認されているなどと論じた。

 偽史研究家・文筆家の長山靖生さんは、こうした酒井の主張について以下のようにコメントしておられた【要約・改変あり】。

酒井自身の中にあった日本人という意識とユダヤ・キリスト教的な自分の愛してきた信念を1つにまとめ、自己肯定の物語として生かしたい、事実として人々に理解し信じてもらいたい、というようにどんどん肥大化していった。

 1931年の満州事変以降、日本は大陸に積極的に進出することで西洋の国々と肩を並べようとした。そんななか、作家・教育者の小谷部全一郎(1868-1941)は、『日本及日本国民之起源』(厚生閣、1929年)の中で日ユ同祖論を展開、神の国の日本人が優秀なのはユダヤ人に由来するものだと論じた。

 小谷部の主張について長山靖生さんは、以下のようにコメントしておられた【要約・改変あり】。

キリスト教、西洋の根源であるユダヤ人のなかで最も信心深い人たちが日本人の祖先だという日ユ同祖説。かなり無理をした国家運営のなかでどうにか心を支える「頑張れるんだ」、「日本人は立派なんだ」という支えの物語として、現実の歴史や努力だけでなくいろいろな物語が必要だった。




 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、まず佐伯好郎についての紹介は、放送では上記だけに限られていたが、ウィキペディアのリンク先には佐伯の業績・活動が詳しく記されていた。概要は以下の通り【要約・改変あり】。
  1. 日本の言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者。
  2. 言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。
  3. 日本人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。
  4. 戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。

 日ユ同祖論に関しては、ウィキペディアでは、
佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラー(アーリアン学説の提唱者)の影響を受けたものであり、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。
しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。

 放送では「秦氏は5世紀頃に渡来、景教が中国に入ってきたのは7世紀頃」という時間的順序が逆になっており秦氏が景教を伝えたというのはあり得ないはずで、国際的権威と評される佐伯がなぜこのことに気づかなかったのかは不思議だ。
 なお、ウィキペディアには、佐伯がなぜ日ユ同祖論を唱えたのかについては以下のようなエピソードが記されていた【出典は『原敬百歳』中央公論社、1955年、25頁。】
彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年、弟子の服部之総に「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを語り、服部を仰天させた。
佐伯の意図が本当に功利的なものであったとすれば衝撃的であるが、もう少し精査が必要かと思う。

 2番目の酒井勝軍は、ウィキペディアによれば、日本の天皇は世界に君臨すべきこと、神政復古の実現を目指すべきであること、超古代の日本に優れた文明が存在したことなどを主張したというが、特高警察に出版物を押収されたり拘束されたこともあったという。『竹内文書』の世界を主張し続けたというがこのあたりのことは私の勉強不足で分からない。日本のピラミッド発見者としても知られているらしいがこれまたよく分からない。
 酒井はまた、オカルトブームや麻原彰晃にも影響を与えたとされている。

 3人目の小谷部は、日ユ同祖論のほか、『義経=ジンギスカン説』を唱えたことでも知られているという。

 放送で紹介された3人はいずれもユニークな発想の持ち主であったようだが、日ユ同祖論を唱えた動機や、当時の国内外の情勢、さらに同時に唱えていた別の主張(ピラミッドやジンギスカン)との関係についても調べる必要がありそうだ。3人はいずれも慶応〜明治初期の生まれであるが、戦後まで生きていたのは佐伯(1965年没)だけであった。佐伯は長生きされたぶん、戦後も多彩な活動をされているようだ。

 次回に続く。