じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 YouTubeのショート動画で、「sin30°、cos60°、tan45°、Tan75°を求めなさい」という問題が紹介されていた。このうちsin30°、cos60°、tan45°は私でも一発で分かるが、tan75°は加法定理を覚えていないと解けないように思われた。
 それに対して「天才」が示したのは左のような図形。sin30°、cos60°、tan45はもちろん、tan75°も、図形の左上の部分に75°があり、(√3+1)/(√3−1)を有理化することで、2+√3を導くことができる。
 こういう図形がパッと思いつく人こそまさに天才と言えよう。高校の頃、数学者を目ざそうと思ったことがあったが、私にはこういう図形で視覚化する能力は無かった。大学入試当時、地方国立大の理学部数学科であれば合格できていたかもしれないが、入学後の数学の授業には到底ついていけず挫折したであろうことは、この図形が思い浮かべられなかったという1点からみても明らかであった。危ない道を選ばずにどうにかこうにか隠居人までたどり着けて良かった良かった。

2025年02月27日(木)




【連載】最近視聴したYouTube動画(9)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(7)あるかないかは証明対象ではなく有用性の問題

 2月22日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。

 さて岡田さんの動画では、「輪廻転生」や「死後の世界」は以下のように考察されていた【要約・改変あり】。。
 私が理解できた範囲になるが、岡田さんのお考えは、要するに
  1. 神がいるという証拠も神がいないという証拠もない。「輪廻転生」も「死後の世界」の有無も証明されていない。
  2. 分からないことは考えてもしょうがない。どっちでもいい。
  3. 分からないものに対しては「あり」「なし」のどちらの予想もできる。個人差の程度にもよるが、すごく辛く捉えている人は楽観的に予想したほうがいい。
ということになるかと思う。

 ここでふと思ったが、そもそも「ある」とか「ない」というのはどうやって証明できるのだろうか? 例えばヒゲをはやした変テコな老人が目の前に現れて「私は神様だ。文句があるなら私が神でないことを証明してみろ。証明できないなら神であると認めろ!」と言ってきたら、それだけで神が存在したという証明になるのだろうか。

 「あるか、ないか」については他にも色々な例が挙げられる。
  1. 全てのカラスは黒い」という議論に関連するが、「白いカラスは存在しない」という主張は、1羽のアルビノのカラスの発見によって完璧に否定されるのだろうか?
  2. 我々は普通、自分の感覚を通して、そこに何かが「ある」と実感する。しかし、「○○がある」と言えるのは、何らかの分類基準により呼称が当てはめられているからであって、何ものにも喩えようのない「何か」に接した時には具体的に何があったと表明することはできない。
  3. 我々は、自分の感覚では感じ取れない対象に対しても言葉を割り当てて「○○がある」と表明することがある。紫外線や放射線などもそうだが、ダークマターのような得体の知れないものも「ある」と考えられている。
  4. この世界に「ある」物であっても、日常生活や科学技術の利便性からいくつかの種類に分類され、別の物として呼ばれることがある。例えば「水」は、必要に応じて「冷水」、「お湯」、「氷」に分類される。冷蔵庫に冷水はあるが氷が無い場合、「氷はない」と言えるが「水はない」とは言えない。また空から降ってくる水は「雨」、「雪」、「雹」などに分類される。
  5. 感覚で感じ取れるような物ばかりでなく、実数とか虚数というように概念として「ある」と見なされるものもある。目の前に2個のリンゴを置いて「ここに2個のリンゴがある」とは言えるが、「ここに2がある」とは言えない。実数はまだしも、虚数とかになると、抽象概念の関係性の中でしか定義できない。
  6. 「虚数はあるか」という場合の「あるかないか」の議論は、観察や経験で証明されるようなものではない。虚数を定義した上で実数とおなじように演算を行っても矛盾は起こらず、かつ虚数を含めた複素数空間に拡張すると、様々な物理現象の関係性がよりシンプルに記述できるというメリットがあればこそ虚数は「ある」のだ。


 「神」や「死後の世界」を想定した生き方を選んでいないという点では私の考えは岡田さんとかなり近いように思える。しかし私の場合は以下のように考えており、岡田さんとは発想が異なるようだ。
  • 「神」とか「死後の世界」というのは証明すべき対象ではない。
  • それらを想定したほうが現実世界がうまく拡張できるかどうか、つまりより豊かな世界を構築する上で有用であれば、それにこしたことはない。これは実数空間を、虚数を加えた複素数空間に拡張するのと同じ。
  • いっぽう「神」や「死後の世界」が冗長な概念であって、現実世界の行動の誘導や、種々の現象の予測やコントロールに何の役にも立たないのであれば、オッカムの剃刀でバッサリ切り落とすべき。
  • 現時点では私は、種々の宗教概念が有用であるとは考えていない。但し、終末期の人や、大切な人と死別した遺族が前向きに生きられるように誘導できる可能性はあるかもしれないと思うところはある。

 要するに、私は「あるか、ないか、どちらも証明されていないから分からない。だからどっちでもいい。ひとそれぞれ好きなほうを選べばよい。」というような考えはとらない。「Aがあるか、ないか」という議論は、
  • まずは、「Aはない」と仮定した上で当該の現象を説明(予測・影響)する。
  • 新たにAを採用したことで、当該の現象がより適確、シンプル、広範囲に説明(予測・影響)できるのであれば、「Aはある」と考える。
  • 但し、将来的に既存の理論よりさらに適確、シンプル、広範囲に説明(予測・影響)できるような理論が登場した時には古い理論は廃れてしまうので、その理論に含まれている「A」も自動的に消滅する。

 話せば長くなるが、例えばエーテルがあるかないかという議論がこれに相当する。

 次回に続く。