じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 8月2日(土)に再放送されたNHK『アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険』(初回放送は2025年2月27日)は、

(18)「パミール越えの恐怖」

であった。

 写真上の画像にあるようにマルコ・ポーロの一行はアフガニスタン・ワハーン回廊を通り、パミールの山々を越えてカシュガルに到達したようである。
 放送の中で1つ気になったのは、山々の画像の中に、パミールから遠く離れたアマダブラムの写真が含まれていたことである。険しい山の雰囲気を出すためとはいえ、マルコ・ポーロたちがネパール・ヒマラヤのエベレスト展望トレッキングをしているみたいで違和感があった。
 なお1978年に私自身が歩いた時の写真がこちらにある。また、キルギスからカシュガルに向かう時の国境越えの写真は、こちらこちらにあり。

2025年08月3日(日)



【連載】チコちゃんに叱られる! 「コンサートでのペン型ライト」、西城秀樹さん

 8月1日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。但し岡山では金曜日は別番組となり、8月2日(土)朝の再放送のみ視聴することができた。この日の話題は以下の通り。
  1. なんでコンサートでペン型ライトを振るようになったの?
  2. なんで家のかき氷はシャリシャリなのにお店のかき氷はふわふわなの?
  3. 海のニオイってなに?

 本日はこのうちの1.について考察する。

 放送では、コンサートでペン型ライトを振るようになったのは「ヒデキがファンの顔を見たかったから」が正解であると説明された。数々のコンサートの運営に携わって半世紀以上となる増田武司さん(イベント制作会社代表)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
  1. 観客がペン型ライトを振るようになったのは西城秀樹のコンサートがが最初だと言われている。
  2. ヒデキさんは2018年に亡くなっているが、7年経った今も人気は健在で、毎年行われているフィルムコンサートには毎年たくさんのファンがかけつけており、ファンクラブの会員数はこの数年で2倍以上に増えているという。
  3. 増田さんはヒデキさんの数多くのコンサートに立ち会ってきたが、1974年8月に大阪球場でソロ歌手として初のコンサートを行った時にたくさんのお客さんが懐中電灯を持ってきたことが、後のペン型ライトの起源。
  4. 50年以上ヒデキ推しのファンに話を聞いたところ、前日のラジオで「球場はすごく広いし夜だから、みんなの顔が見えるように懐中電灯を持ってきて振って!」とヒデキさん自身が提案したという証言が得られた。大阪球場ではナイター用の照明は使用せず、客席用のライトも無かった。球場の前のデパートでは懐中電灯が売り切れ、当時アルバイトとして参加していた増田さんは、ファンたちを球場東側の電気街を案内した覚えがあるという。
  5. しかし、当時は振り付けなどが全然分からず懐中電灯を振っていたという。2016年8月24日の「東京新聞」のコラムでヒデキさんは、「初めて見る客席の光はとても幻想的だったのを覚えています」と回想している。
  6. 1975年以降にペン型ライトに変わったのは、これはコンサート用ではなく簡易型の懐中電灯。ライトは白色の光だけだったので、曲に合わせて色付きセロハンを貼り替えていた。
  7. ヒデキの大ファンであるハイヒール・リンゴに話を聞いたところ、ペン型ライトは歌によって動きも決まっていた。客席の真ん中にコアなファンの人がいて、みんなその人をみて「あ、こうするのね」と合わせた。
  8. 80年代にはケミカルライトに変わった。ケミカルライトを売り出したペン型ライト製造・販売会社の川尻あかねさんの話によれば、ケミカルライトはコンサート用ではなくアポロ計画が起源で火や電気を使わない安全なライトとして開発され、その後釣具、パーティーグッズなどで販売された。それを、どなたかが購入され会場に持ち込んだことで広まったのではないかという。
  9. 2010年代以降はアイドルブームなどでペン型ライト文化が定着した。
  10. ヒデキさんは、さらにライブでは叫び声ばかりで歌を聴いてもらえない悩みがあったがそれをコール&レスポンスしたり、アルミ製の軽いスタンドを使ったマイクスタンドアクションなどを取り入れるなど、それまでになかった斬新なアクションを導入した。


 ここからは私の感想・考察を述べる。
 まず今回取り上げられた西城秀樹さんだが、1955年4月13日のお生まれで、2018年5月16日にお亡くなりになっている。1972年3月25日、RCAレーベル(日本ビクター、現在はソニー・ミュージックレーベルズ)よりシングル「恋する季節」で歌手デビューした。私自身は1952年の生まれなので、ヒデキさんより3歳年上であり、ヒデキさんがデビューした1972年は大学の2回生(厳密に言えば2回生になる直前)であった。いっぽうお亡くなりになった2018年は私が定年退職により隠居人生活を始めた1年目にあたっている。ということで、ヒデキさんと私はほぼ同世代。2018年から2025年にいたる7年分の隠居人生活のぶんだけ私のほうが楽をさせてもらっていると言えるかもしれない。なお、妻にヒデキさんのファンだったかどうか尋ねてみたが返事は「ゼンゼン」の一言だけだった。

 ま、同世代といっても男性アイドルには全く興味が無かったこともあって、ペン型ライトを振ることについても今回初めて知った。
 放送では『ケミカルライト』が紹介されていたが、ウィキペディアによれば危険性も指摘されており、
こうした危険性から、日本など一部の国ではLEDを用いたスティックライトに取って代わられつつあり、コンサートなどでケミカルライト持ち込み禁止・使用禁止となりスティックライトの代替使用を勧める場合もあるのが現状である。
という扱いになっているようだ。

 ヒデキさんは新御三家の一人であるが、残りの2人のうち野口五郎さんは1956年生まれ、郷ひろみさんは1955年うまれで、お二人とも今でも活躍されている。1970年代前半には花の中三トリオというのもあったが、そうした女性アイドルに比べて新御三家の男性アイドルのほうが遙かに活動期間が長い点が興味深い。また男性アイドルに対してはファン歴50年とか、亡くなった後でもフィルムコンサートにたくさんのファンが駆けつけているという点もスゴい。近い将来、AIによるアイドルのCG化がよりリアルになれば、永遠不滅のアイドルとして存在し続けるようになるかもしれない。

 次回に続く。