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じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園内のイチョウの大木。12月1日(月)には黄葉の見頃を迎えていたが【写真上】、休園日を挟んで翌々日の12月3日(水)にはかなり葉を落としていた【写真下】。

2025年12月4日(木)



【連載】3か月でマスターする古代文明(8)見直される“文明の始まり”/「日本神話・天皇制」と「四大文明」

 昨日に続いて、表記の番組の感想・考察。本日は、

(1)衝撃!最古の巨大遺跡 見直される“文明の始まり”

を取り上げる。

 放送ではまず、番組ナビゲーターの関雄二さんが紹介された。

関さんは国立民族学博物館の館長をつとめておられ、南米のアンデス文明のフィールドワークを中心に考古学と人類学を融合させながら「人類の歴史」を見つづける研究者です。

なおウィキペディアによれば、関さんは1956年のお生まれとのことで私より4歳お若いようだ。国立民族学博物館館長・名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授とのことで、すでに教授職は定年を迎えておられるようだが、管理職としてのお仕事は続けておられるようだ。

 続いて学校で教えられてきた『古代文明』のあらましが取り上げられた。
  1. 古代文明と言えば四大文明。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河。
  2. いずれも大河のほとりにあった。
  3. 集落が都市へと成長し、国家になるなどして「文明」が誕生。
  4. その初期の段階ではいずれも大河の水を使って農耕が営まれた。
  5. 文明の始まりには「農耕」があった。
しかし、関さんによれば、「四大文明」というのは日本だけで通用する言葉であり、海外では言われていないという。

 さっそくChatGPTに、

【質問】「四大文明」という言葉は海外では使われていないと聞きました。日本ではどのような経緯で広まっていったのでしょうか?

いただいた回答は以下の通り。


「四大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河)」という枠組みは、**日本で特に強く普及した独自の歴史概念**です。海外では一般に使われず、日本の教育史の中で定着したものです。以下、日本で広まった経緯をわかりやすく整理します。

# ■ 日本で四大文明が広まった経緯
  1. 19世紀末〜20世紀初頭:西洋の「古代文明」研究の輸入**
    • ヨーロッパでは19世紀にエジプト・メソポタミア研究が進み、「古代文明(Ancient Civilizations)」という広い枠組みが語られ始めました。
    • しかし「四大(Four major)」という**数で区切った発想は存在しません**。
    • 日本の学者が西洋の文明論を取り入れる際、**“文明の源流をいくつかの中心にまとめて教える”**という教育的整理として「四つ」にまとめる発想が生まれました。
  2. 1920〜1950年代:歴史教科書で整理概念として採用される**
    • 戦前〜戦後直後の教科書の中に、メソポタミア・エジプト・インダス・支那(黄河)を文明の起源として扱う整理が登場しました。
    • 当時はまだ「四大文明」という語は固定的ではありませんでしたが、 **教育用に“古代の文明の代表例”を複数挙げる構成が定着**します。
  3. 1960〜1970年代:「四大文明」という語が固定する**
    この時期に、日本の参考書・教育雑誌・受験産業が「四大文明」という用語を積極的に使用し、**受験用語として一般化しました。**
    • 中高の社会科で「四大文明」が試験問題の定番になる
    • 学習参考書が「四大文明」としてまとめて説明
    • NHKなどの教養番組で採用され、一般語として広がる
    このように**教育現場と受験の影響が非常に大きい**です。
  4. 1980〜2000年代:教科書で完全に定着**
    教科書会社が「四大文明」の項を明確に設け、図表でまとめるようになり、**日本で“常識化”**しました。
    ただし研究者の間では、早くから次のような指摘がされていました:
    • 文明は四つに限定できない
      (例えば黄河文明より古い長江文明、アメリカ大陸やアフリカの文明もある)
    • 「四大」という区分は教育的整理にすぎず、学術的概念ではない
    • 欧米では使われない


# ■ 海外ではなぜ使われないのか?
理由はシンプルで、海外の学術では:
  • 文明を**地域ごとに個別に研究**する(数で区切らない)
  • 文明は世界中で多数並立したと考える
  • 「文明の起点を4つにまとめる」必要性がない

つまり、**“四大”という枠組み自体が日本の教育向けの合成物**だからです。

# ■ まとめ
日本で「四大文明」が広まった背景は――
  • 西洋の古代文明研究を輸入
  • 教育用に“4つ”へ整理
  • 戦後の学校教育と受験で定着
  • 教科書・メディアで一般化
という流れによって、「日本独自の学習概念」として強固に根付いたものです。




 ここで1つ疑問になるのは、四大文明は「1920〜1950年代:歴史教科書で整理概念として採用される」というように戦前からすでに採用されていたと説明されていた点だ。日本神話や天皇制を重視した戦前の歴史教育と、日本以外で誕生したとされる「四大文明」の概念は矛盾しなかったのだろうか?
この点についてChatGPTに尋ねたところ、以下のような回答をいただいた。


とても鋭いご質問です。
結論から言うと――

# **■ 戦前の歴史教育(日本中心史観)と「四大文明」は、**

# **矛盾を内包しつつも「うまく接ぎ木」する形で共存していました。**

それは、戦前の歴史教育が**日本神話 → 皇国史観(天皇を中心とした国史) → 世界史(西洋文明)**という“段階的な序列構造”で作られていたため、「四大文明」のような海外起源の文明も日本中心の枠組みの中へ取り込めたからです。

以下、戦前の教育カリキュラムと実際の教科書の特徴に基づいて整理します。

◆戦前の歴史教育の基本構造
戦前教育(特に1890年代〜1945年)では、
  • 国史(=日本史)が中心。最初に教える。**
    しかも「神話(天孫降臨)→初代神武天皇」という実在・非実在を混ぜた構成。
  • 世界史は国史の“補助教材”扱い。**
    日本史の背景を補うものとして教えられ、
    日本が世界文明の中で特別な位置にある、というニュアンスが強かった。
    つまり、
    **「まず日本ありき」で、外国史は脇役**
    という構造がありました。

    このため、外国で発生した文明を教えること自体は矛盾とは見なされませんでした。
  • 「四大文明」の内容は“中立的な知識”として扱われた
    戦前の教科書をみると(例:『高等小學校 歴史』(1930年代)など)、古代オリエント文明は以下のような“事実知識”として説明され、
    • エジプト文明
    • メソポタミア文明
    • インダス文明
    • 中国文明(殷・周)

    これらを特別な政治的意味づけなく紹介していました。
    つまり、
    ### ● 外国文明は「世界史的知識」として処理
    ### ● 日本神話・天皇制とは領域が違うため“衝突しない”構成
    という分業体制になっていました。

  • むしろ「日本は独自の文明を形成した」という主張が補強された
    四大文明を紹介したあと、多くの戦前教科書は次のような流れを取ります:

    ### ● 外国にはこのような古代文明があった

    ### ● 日本はそれらとは異なる独自の文明・文化を持つ

    ### ● その中心が天皇である(皇室中心史観)

    つまり、四大文明は
    > 「西洋やアジア大陸には異なる文明があった」
    > 「しかし日本はそれとは別の系譜を持つ」
    という“日本独自性”の強調に利用されました。
    これは矛盾どころか、当時のイデオロギーにおいては**むしろ日本の特異性を際立たせる道具**として使われたとも言えます。

◆戦前教育は「世界文明の序列化」を行っていた
戦前の教科書は、文明を次のように階層化していました。
  • ① 旧世界の古代文明(四大文明)
  • ② ギリシア・ローマ
  • ③ キリスト教文明
  • ④ 近代ヨーロッパ文明
  • ⑤ 日本文明(特別・独自)

この階層化があるため、
### ● 四大文明は“文明の出発点”
### ● 日本は“文明の完成形に近い独特の国家”
という、現在から見ると不自然なまとめ方がされました。

そのため、**四大文明を教えても日本神話と矛盾する、という認識にはならなかった**のです。


◆「四大文明」という語そのものは戦後に一般化
なお、現在の形で「四大文明」という“固定語”になったのは戦後で、戦前にはまだ「四大文明」という語はさほど一般的ではありませんでした。
しかし、**文明の起源を4つ(または複数)に分類して教える枠組み**自体は戦前にも確かに存在します。


■ 結論
戦前の日本では、
  • 日本中心史観が最優先
  • 外国文明は補助的知識として扱う
  • 体系が違うため直接矛盾しにくい
  • むしろ日本独自性の強調に利用された

という理由から、**「日本神話・天皇制」と「古代四文明」は矛盾せず共存できた** ということになります。





 以上、

外国文明は「世界史的知識」として処理。日本神話・天皇制とは領域が違う

というように解説されていたが、外国の文明はピラミットや都市遺跡などがはっきり残っていることで証拠づけられるのに対して、日本神話は当然のことながら遺跡の存在をもって証明することはできない。日本神話が書かれている通りであるなら日本にも外国の古代文明に匹敵する遺跡があるはずだという疑問は生じなかったのだろうか? この点はよく分からないが、日本では皇国史観とは別に古来から山や岩や巨木などには神が宿るという考えがあったため、人工的な遺跡が見つからなくても、自然のご神体があればそれで十分だと思われていたのかもしれない。
 ちなみに私自身は戦後の教育を受けてきたので、「四大文明」が栄えていたころ、日本列島では毛皮をまとった野蛮人たちが狩りをしたり果物を採集したりして原始的な生活をしていたというように習っていたように思う。

 不定期ながら次回に続く。