じぶん更新日記

1997年7月


文中のリンクについてはメンテを行っておりません。ご了承ください。

7/31の日記に関連して、次の方から「正解数」のご報告をいただいた。いつも、ありがとうございます。なお、7/24のクイズのほうは、明日以降に、説明記事を載せたいと思っております。

970731(木)
[日記]日記を書くこと読むこと(9)7月に印象に残った日記
 31日の午後から2泊3日で、鳥取県の大山のほうに遊びに行くため、1日早めに恒例の月末「日記読み日記」をやりたいと思う(6月の「日記読み日記」は7/1付け記事にあるが、リンク先の訂正をしていないので、もはや意味不明日記と化してしまった)。ええと、引用リンクさせていただいた部分は、クリックすれば該当日記にアクセスされます。いちいちアクセスが面倒だという方は、下記の解答編をマウスでなぞってください。10問以上正解された方は長谷川まで、(正直に)正解数と(あれば)日記URLをお知らせください。日記道の達人として認定・公表させていただきます。
 6月に比べると、7月の「日記界」は、まさに激動の1ヶ月であった。発端は、7月5日頃だったと思うが、ランキングトップを走る(1)こちらの日記作者の方が突然、日記の執筆を中止してしまったことだ。また、日本時間では7月6日、日記猿人のアンケートに不正投票(同一人物による特定選択肢への水増し投票)のあることがこちらで発覚した。たまたま日曜日の午後で、日記巡りをしている最中だったので、私は、即座に、「日記猿人には、たくさんの参加者がいる。その全体の問題を話し合い、意見を集約している神聖な場所を、抵抗の手段に使うとは何事だ。」という追記を掲載した。
 不正投票をめぐるその後の論争は、複数の日記に詳しく述べられているので、ここでは重複を避けたい。私は、不正と正面から闘っている日記作者の方には敬意を表しているのが、率直なところ、対象者は、まっとうな議論をできる人だとは思っていないので、個人的には、(2)こちらの意見に近い考えだ。
大学教授にもごく稀にそういう人がいる。知的レベルは高いが、筋道立てて自分の主張をする能力がない。とうぜん批判されても反論できない。裏で「陰謀だ」などどわめき、しばらくすると懲りもせずに、また持論を展開する。周囲の人間からは、もはや相手にされない。嘲笑され、適当にあしらわれるのみである。こういう人生は送りたくないものだ。

 で、この問題を含めた今後のことだが、早く新しいスーパーバイザーを選出して、そちらの方々に一任したいと思う。スーパーバイザーの候補者の一人としては、私は、(3)この方を強く推したいと思う。御本人も前向き(7/29)なので、このさい、どうだろうか。
 この件に関しては、(4)某大学教員が7/15の日記で、[a]CGIに詳しい人、[b]倫理意識レベルが高い人、[c]悪さをときには働く人(^^)の3人が望ましい、と提案されていた。[a]は上に述べた方が適任、[b]は...、ええ?、そんな人「日記界」にいたかなあ。ええと、[c]は、.....(5)この青年、おっと、余計なことを...。
 それから、これも近く掲示板に書こうと思っているが、日記猿人の運営資金をもっとみんなで出し合うべきではないだろうか。いけがわさん個人に相当なご負担をかけているはずである。

 激動の7月と言えば、私が毎日拝見している日記が、一時期中断された。1つは、この事件と多少関係あるのかもしれないが、(6)こちらの方の日記である。もう1つは、どう見てもこの事件とはゼンゼーン関係ないが、作者が風邪をひかれて休止された(7)日記があった。幸い、いずれも速やかに更新が再開されて何よりである。ただ、一時期、某24歳青年から「ハセピーファン」との疑惑をもたれた(8)こちらの日記が、不当な圧力によって閉鎖に追い込まれたのは、まことに残念である。
 さて、そろそろ別の話題へ。(9)こちらの方のパクリ日記もなかなか楽しかった。私が拝見した限りでは、なぜか男性作者ばかりのパクリだった。かやすがさん、たえさん、原麻めぐみさんなどのパクリも期待していたが、ひょっとして女性は苦手なのかなあ。
 女性の日記といえば、スズムシの飼育以来なぜか(10)この女性の日記を気に入ってしまって、ストーカーのように毎日読んでいる(ご本人は気づいていないと思う。密告しないでね)。7/29の日記では、「F氏は、今わたしが一番興味を持っている人である。ものすごい生活をしているのだが、人には言えない生活なので、...」と、意味深長な記述が気になるところだ。F氏って、まさかあの、ば○わ○氏のことではないだろうなあ。
 7月以降に新しく読むようになった日記としては、(11)こちらがある。ニュースソースはどこなんだろう。内容も、一口コメントも、私のスクラップブックよりはるかに面白いなあ。ただ、日記猿人には最新ページURLを直接リンクしてほしいなあ。
 (12)こちらも、だいぶ以前から登録されている日記だと思うが、別の日記で紹介されるまで、全く気がつかなかった。
 新しく登録された日記では、(13)この日記のデジカメ写真が面白い。しかし、こんな面白いネタが毎日続くかどうか、ちょっと不安が残る。
 それにしても、このところ、次々と新しい日記が登録されて、とうてい読み切れない。中には、私の商売を脅かすような日記もあるし、7/30夜の時点でURLをちゃんと登録していない日記、何となく怪しげな日記などあって、「日記よみ日記」の「専門家」も追いつくのが大変だろうと思う。
 たいへんと言えば(14)こちらも、膨大な新規登録日記のおかげで、ますますエンディングが遠のいてしまった。ご苦労なことだ。競馬には関心がないが、私もついついつられて、(15)こっちの日記まで毎日拝見するようになってしまった。

解答編(マウスでなぞると答えが出てきます)。10問以上正解された方は長谷川までメイルください。日記道の達人として認定・公表させていただきます。
|(1)オランダ駐在日記|(2)いい加減な毎日|(3)ぷろくら日記|(4)わかば日記|(5)(ドラゴンズだったかカープだったか忘れたけれど...、怒らないでね。しかしご本人も否定はしないと思う)|(6)思うこと|(7)ヒラリーマン随筆日記|(8)れすッ!|(9)よろずや談義|(10)今日のわたしの行動|(11)毎日がにちようび|(12)ちゃろん日記(仮)|(13)円環日記|(14)拝見してはイケンする|(15)馬に遊ばれて|

<補足>ずくなし日記の玉川さんから、よろずやパクリ日記で、「Today's Nicky の しおりん もパクられていたと思います。」との御指摘をいただいた。必ずしも男性日記作者に限定されたものではなかったようだ。年休中で拝見するのが遅れたが、その後、御本家様の7/31の日記でも、「女性の日記も,しおりんとわしさんはパクったのであるが」との記載があることに気づいた。えっ?わしさんは女性だったか。


970730(水)
[教育]学校で教えるべきこと
 スクラップブック7月28日記事で紹介したように、このほど文部省は、教育課程審議会(三浦朱門会長)に、小学校から高校までの各教科の見直し案を示したという。これを機会に、学校で教えるべきこと(ここでは教科に限るものとする)は何かということについて、思いつき程度ではあるが、考えを述べてみたい。

 毎年、センター試験や個別学力試験の監督をさせられている時に感じることだが、大学の教官がセンター試験の問題を解かされたら、いったい何点ぐらい取れるだろうか。果たして自分の勤める大学に入れるかどうか、はなはだ怪しいものだと思う。私自身、監督をしながら、監督者用の予備の問題に目を通してみたりするが、受験生時代よりよい点がとれそうなのは英語だけであろうと思う。大学入試もさることながら、果たして、自分の出身中学や高校を受験して入れるかどうか、それさえ疑わしい。
 中学・高校時代をふりかえってみると、ずいぶん無駄なことで頭を使ったように思う。たとえば、社会科で、国内の炭田や銅鉱山などを必死に覚えた。いま国内にそんなものが残っているだろうか。あるいは、日本の主な輸出品を示す円グラフなどがあって、それぞれどういう品目なのかを覚える。私が中1の頃に習ったのは、当時の参考書を引っぱり出して調べてみると、1位が鉄鋼、2位が船舶、3位が金属製品、4位が綿織物、5位衣類、6位自動車、7位魚介類、8位ラジオ....という順になっている。こんなことを覚えて、何の役に立ったのか、かえって固定観念を作ってしまっただけなような気もする。
 暗記科目ばかりではない。数学の微積分や複素数、三角関数...。まあ、数学は嫌いではなかったが、毎日何時間も勉強するほどのことはなかったなあ、と思う。
 国語の古文や漢文は、特に嫌いだった。私の父親は高校の国語の教師だったが、その反発もあったせいか、徒然草などごく一部の作品を面白いと思ったほかは、進んで学ぶ気にはなれなかった。とにかく受験のための手段としてのみ勉強した。

 中世のヨーロッパでは、ラテン語を学ぶとある種の「脳力」が鍛えられ、他のあらゆる学問を速く修得できるようになると、長いこと信じられていたそうだ。しかし、教育学者や心理学者たちの度重なる検討を通じて、現在では、「特定の学問を集中的に教えても、必ずしも一般的な知能や創造性を伸ばすことには結びつかない」ということが定説となっている。つまり、数学を一生懸命学んだからと言って、一般的な思考力が伸びるわけでは必ずしもない。理科や社会、古典なども同様である。

 では、どうすればよいか。とにかく、どうせ忘れるようなことまで、無理やり教え、評価する必要はまったくないと思おう。少なくとも中学までの教育では、社会人になってから、これを知らないと生活できないという最低限のことだけを教えればそれでよいではないか。そのかわり、60点で合格ではなくて、90点あるいは95点とらないと合格できないようにする。
 あとは、各自が興味をもったことだけを好きなだけ学べるよういろいろな機会を与えてやる。スポーツや芸術、特殊技能的なものは、家庭内の教育だけに頼っていると、親の偏った趣味だけが子供に伝えられる恐れがある(私の家もそうだ)。学校では、幅広く、いろんな可能性を伸ばす機会を与えてやる。その中には、漫画、映画、園芸、大工、料理、手芸、魚など、テレビチャンピオンで取り上げそうな分野は何でも取り込む。囲碁や将棋、天体観測などもあってよい。ただ、これは可能性を与えるだけであるから、成績評価をする必要はまったくない。

 いずれにせよ、いまの教科が本当に必要であるとの保証はどこにもないということを強調しておきたい。たとえば、(手前味噌みたいになるが)、いま、中学や高校には「心理学」という科目はない。なぜ地理や歴史はあるのに「心理学」がないのか、昔の人の行動は教えるのになぜ身の回りの人間のことを教えないのか、。「医学」、「薬学」、「栄養学」、「農学」、「水産」、「環境工学」、「文化人類学」なども別の教科のごく一部の単元としてしか教えられない。このさい、既存の教科の縄張り争いみたいなことはやめて、最低限、これだけは身につけてもらいたいものは何か、という観点から教育の見直しをはかってもらいたものだ。

970729(火)
[気象]日本でいちばん暑い都市はどこだろう?
 7/28は、台風くずれの弱い熱帯低気圧の影響で、一日中雨。熱低の渦巻きの西側に位置しているせいか、岡山では涼しい風が吹き、クーラーを必要としない一日であった。
 きょうのような例外はあるものの、岡山の夏は東京よりは暑い。もっとも、昔下宿していた京都は、さらに暑かったように記憶している。そこで、私の愛読書の1つ『理科年表』で、8月の最高気温の平均値を都市別(県庁所在地)に高い順に並べてみると、
  1. 京都 32.9
  2. 大阪 32.8
  3. 岡山 32.7
  4. 熊本 32.6
  5. 佐賀 32.4
という順であることがわかった。
 東京は30.9度であり、約2度ほど低い。大した差でもないように見えるが、実家に泊まったときなど、朝夕はずいぶん過ごしやすいように感じる。
 「日記猿人」のランキングのトップ近辺に位置する某日記作家の方が、数日前に、夏に京都に行きたいというようなことを書かれていた【7/29夕刻補足:ホントに行くことになったらしい】。最近では市バスもみな冷房車だからそれほど苦にはならないかもしれないが、私が学生の頃は、京都でひと夏を過ごすのは、相当の辛抱が必要だった。昼間は冷房のきいた大学の実験室で過ごしたのでどうもなかったが、下宿に帰ってからが大変だ。だいたい、下宿というのは風通しの悪い部屋が多い。窓を開けっ放しにしても、体に水分のある限り一晩中汗が流れ出る。あまりの暑さに頭がおかしくなって、急きょ帰省した友人もいた。
 そういうこともあって、大学院以後はよく、長野県の学生村というところに行ったものだ。冬にスキー客相手の民宿をやるような農家が、夏休みに、当時の値段で1泊3食つきで3000円前後で、受験生・大学生・大学院生・司法試験受験生などを受け入れてくれた。勉学が目的の宿泊だから、最低でも1週間以上、個室、勉強机つきが原則となっていた。段ボールに本や雑誌論文のコピーなどをたくさん詰めて宅配便で送り、早朝に2時間、午前中3時間、午後3時間ほど勉強し、夕方は近くの山道を散策する。
 私が大学院時代に利用した学生村は、白馬、柿其(南木曾)、乗鞍、志賀高原、浅間山麓、松原湖の6ヶ所であったように記憶している。そう言えば、かわいい女の子が同宿(もちろん別の部屋)したこともあったが、みんな結婚してしまったなあ。Web日記を書いている人はいないだろうなあ。
 残念ながら、この「信州学生村」、年を追うごとに受け入れ町村が減少し、衰退していった。今ではどうなっているのだろうか。今でもサークルの合宿は受け入れているだろうが、下宿(というか、学生マンションというか)にもクーラーが普及した現在、インターネットから隔離された信州の山奥で1ヶ月ちかく勉学に励む学生がどれだけいるか、疑問である。大学受験生のほうも、じぶん独りで勉強するよりは、予備校の講習に通ったほうが安心するのだろう。

 話が脱線してしまったが、もとの、いちばん暑いところはどこかという話題にもどろう。 昼間暑いのも困るが、夜に気温が下がらないと寝苦しい。そこで8月の最低気温の平均値が高い都市を順番に並べると、
  1. 那覇 25.8
  2. 大阪 24.8
  3. 岡山・長崎 24.7
  4. 鹿児島 24.5
となっている。こちらも、大阪や岡山の暑さが目立つところだ。
 夏の暑さは湿度も考慮する必要がある。そこで8月の15時の時点で不快指数が80を超える平均日数を調べると、
  1. 那覇 27.3日
  2. 佐賀 26.8日
  3. 岡山 26.0日
というデータが得られた。
 最後に、岡山は「晴れの国」などと言われるが、8月の日照時間平均値はどんなものだろうか。
  1. 高松 233
  2. 岡山・那覇 231
  3. 和歌山 228
などとなっていた。岡山は年間でも、高松(2116時間)、高知(2107)、宮崎(2103)に次ぐ2083時間なので、まあ、「晴れの国」に偽りはないと言ってよいだろう。

 いろいろデータをあげてきたが、夏は暑くて当たり前だ。私は、中学時代に「地学・天文・気象」のサークルに属していたせいもあって、今でも新聞はまず天気図から、テレビもいちばん好きな番組は「気象情報」という変わり者である。そんなマニア的な目から見ると、今年の夏はどうもおかしい。暑さはこたえるが、何事もない、暑い夏で終わってほしいものだ。
※上記の比較は、すべて、都道府県所在都市のみの比較で、おおむね1961年から1990年までの平均値に基いている。


970728(月)
[生活]水神祭と肝試し
 7/27は、町内会主催の水神祭が予定されていたが、変な台風(というか異常な気圧配置)のおかげで、夕方になっても時折雨が降り、結局中止になった。この水神祭というのは、町内を流れる用水路に形ばかりの祭壇のようなものを作って「南無八幡水神大明神」だったか何だったか忘れたが、それらしき札を立て、その周りに、小学生が思い思いの絵を描き込んだ行燈を並べ、夜店などを出して子どもを楽しませる企画である。いちおう祭壇のようなものがあるので、この行事があることを理由に町内会の役回りを断る人もいるが(雑用が面倒なので、本当は無信仰なのに、この時だけ宗教上の理由をあげて断る人もいる)、我が家はあまりこだわらずに参加してきた。
 以前にそんないきさつで町内会幹事を引き受けて、お祭りの準備をしたことがあった。その準備の会合に妻が参加した時に、「雨が降りそうな時はどうしようか」という意見が出たそうだ。しかし居合わせた長老が、「ワシは生まれてこのかた71年になるが、水神祭が雨で流れたことは一度もないので、そういうことは考えなくてよろしい」と言ったそうだ。7月下旬というのは、それほど天気が安定している時期なのだ。
 この日は、水神祭のあとで「肝試し大会」というのも予定されていた。これは、小学校5年までの子供たちが、お寺の境内の真っ暗な道を一周するというもので、「お化け」は6年生がやることになっている。毎年、脅かされてキャーキャー言っていた子供たちは、6年生になった時だけ「お化け」の役で脅かす楽しみを味わうことができるのであったが、これも中止になってしまった。代わりの日は予定されていないそうだ。今年の6年生には、気の毒な天気であった。

 私が育った世田谷では、町内会はあったが、子供会というようなものはなかった。町内会も商店街が中心にやっていたのか、ローテーションで幹事を引き受けるというようなことはなかったように記憶している。しかし、これは特殊なほうらしく、以前に住んでいた愛知県犬山でも、長崎県長与町でも、かなりきっちりした町内会組織があって、毎年5-6回は、運動会とか盆踊りとか文化展などの行事にかり出されたように記憶している。いま住んでいる津島の町内会・子供会でも、うえに述べた水神祭のほか、ラジオ体操、盆踊り、だんじりを曳いて町内を練り歩く秋祭り、運動会、バス旅行などが行われている。
 神戸の事件などを取り上げて、町内の住民の交流をもっと活発にすべきだと主張する人もいるが、非行の防止の効果があるかどうかは不明である。いま住んでいる所のばあい、形の上では活発にいろいろな行事を催しているものの、運動会などは、選手のなり手がなく、幹事の役回りに当たった家がやむをえず一家全員で選手を引き受けるケースが多い(私も、幹事になった年だけは、中年男子の70メートル競走に出場した)。バス旅行なども、どうせ行くならマイカーで行ったほうが気楽だという家が多く(我が家も同様)、アパート30所帯で参加希望を出すのは1所帯あるかないか、ぐらいだ。ただ、毎月1回の幹事の会合に参加した時に、1つだけこれはよいなあと思ったのは、会長や副会長など進んで引き受けているお年寄りたちが、イキイキとした表情で、行事の準備を進めていたことである。お祭りなど、子供のためにやるという建前になっているが、本当は、準備をしているお年寄りたちがいちばん楽しそうにしているのだ。子供のための何たらは別として、少なくとも高齢者に生きがいを与えるためには、町内会行事でお年寄りに活躍の場を与えることは大切なことであろうと、ふと思った。

970727(日)
[生活]台風は、桃の被害が心配
 季節外れの台風襲来で、岡山南部でも、珍しく暴風警報が出された。岡山というのは全国でも自然災害が少ないことで有名な県だが、裏を返せば、それだけ災害に弱い所とも言える。いまの時期、おそらく相当の被害が心配されるのが、桃畑である。以前、彗星日記を書いていた頃に、岡山の桃源郷というのを紹介したことがあった。写真を撮った付近には、知り合いの農家があって、つい4-5日前に、妻が桃を買いに行ったばかりである。あいにく、まだ、出荷するほどには熟しておらず、規格外の桃をどっさりタダで貰ってきたところだった。あと1週間もあれば、おいしい桃がたくさん収穫できるはずだったのだが、さて、この強風でどれだけ持ちこたえられただろうか。何とも残念だ。

 台風の話題のついでに、日頃思っていることを2、3、書き加えておきたい。

970726(土)
[科学]人間のオッパイを出す羊
 台風9号が接近していて、岡山では朝から雨まじりの強風。
 (きょうはスクラップブック風の話題で恐縮だが、)世界で初めてのクローン羊「ドリー」をつくった英国の研究陣が、新たにヒト遺伝子を組み込んだクローン羊「ポリー」を誕生させたと、24日の英紙が報じた。この羊はヒトの蛋白質を含んだ乳を出すことができる。この技術を使えば、特定の蛋白質を作れない患者の治療に役立てることができる。研究グループは羊の細胞から核を取り出し、ヒトの遺伝子を導入。これを核を抜いた羊の胚細胞に入れ、羊のおなかの中で成長、出産させた。ロンドン発ロイター電によると、生まれたクローン羊はポリーを含み5頭であった。
 橋本首相は「これはちょっとおれは答弁の能力がないぞ。...何かちょっと薄気味悪いな。...でもさ、羊より大量に乳を出す牛の方がいいんじゃないか。勉強しないと答えられない。」と発言(7/26朝日新聞「発言録」)。
 この件については、私も勉強しないとコメントできないが、ここでいうクローンというのは、繁殖の方法に先のドリー同様のクローン技術が使われたという意味であって、人間のクローンを作ったという意味ではないはずだ。しかしこの種の話題となると、「羊人間」が勝手に登場してくるのは時間の問題だ。
 これに関する専門家の見解としては、4/10のスクラップブックでとりあげた、三菱化学生命科学研究所・室長・米本昌平氏によるコメントがある。
クローン羊誕生のニュース以後、速報性と論評の質という点で、群を抜いていたのは英国の『エコノミスト』と『ネイチャー』であった。これらの二誌は、仮にクローン人間が誕生しても、それは年齢の違う一卵性双生児が生まれること以上でも以下でもないこと、などを論じている。世界的にみると、過度の研究規制や感情的な反科学を避けたい科学界、これまでの実績をもとに法的問題は微調整ですませたい行政当局、一般世論を背景にできれば包括的な法の網をかけたい政治家という三すくみ状態が生まれつつある。なお、クローン羊で一躍有名になったロスリン研究所は、乳の中に医薬物質を産出するよう遺伝子組み替え技術によって改変された羊(トランスジェニック動物)を、クローンによって殖やすという、明確な研究戦略をもっていた。

 今回のポリーは、この米本氏の予測どおりの研究の発展であったと言えよう。


<7月25日おまけ>日記猿人関係者向け:珍しい映像を御覧になりたいかたは、こちらをクリックしてください。最終順位を予測するとは、赤尾さんもすごい!
おっと、こっちのほうが当たっていたりして? きゃー

970725(金)
[心理]名乗れば誰でもカウンセラー
 一昨日の新聞の雑誌広告で「カウンセラー(相談員)は本当に役立つか!」という記事が『女性自身』(8/5号)に掲載されていることを知った。
大学周辺の本屋で、私自身がこれを買うのはちょっと恥ずかしい。恥ずかしいというよりも、本屋やコンビニには、教え子がうようよしているので、「ハセピーは女性週刊誌を読む趣味がある」などという変な噂を立てられる恐れがある(だから、エッチな本の立ち読みもできない)。その弱みを知っている妻は「あなた自分ではゼッタイ買えないでしょう。もし、買ってきたら、三遍廻ってワンをしてあげるわ」などとからかう。しかし、さすがは思いやりのある妻だ。ちゃんと買ってきてくれた。

 で、その内容であるが、けっこう納得できる内容であった。
 記事の初めのほうでは、私がこのホームページでも紹介している金属バット息子殺人事件での、カウンセラーの対応を問題にしていた。父親が、鼻の骨が折れるほど殴られながら、土下座して息子の言いなりになっていたのは、「親が子の要求に答えてやることが必要です。暴力に立ち向かうのは、よくない」というカウンセラーの教えをひたすら守っていたためであるという。
 次に、犯罪精神医学の権威の小田晋・国際医療福祉大学教授の発言がいくつか引用されている。
“現状では日本のカウンセラーの大半が、来談者の自主性にまかせて、本人の話に根気よく耳を傾けるという方法をとっています。これは精神分析の考え方から出発したカール・ロジャースという心理学者の技法で、この方法は本人が苦しんでいて立ち直る意欲がある場合は効果的ですが、本人が自分の問題性を自覚していない場合は、そもそも治療に入れず、その間に事故が起きてしまうことが稀ではありません。”...“米国では今日、行動科学の考え方に立って、本人の行動を矯正していく方法のほうが盛んになっています。”
さらに平成7年から始まったスクールカウンセラーの制度について、小田教授は次のように指摘している。
“このスクールカウンセラーの多くは、ロジャーズ方式なのです。つまり、向こうから来るのを待っている。しかも、カウンセラーの多くは、心のケアが大切だという大前提のもとに、犯罪心理学や精神医学を学びたがらない。”....“自主性の尊重という名の放任は、危険きわまりないことです。”..
 最後に『女性自身』は、次に、カウンセラーには国家的な資格はいっさいない、ということを正しく指摘している。「明日からでもなれるという意味では、宗教団体の教祖と同じです」、これもまた小田教授の発言。

 この問題については、スクラップブックの7/23のコメントでも述べたように、
いま全国で活躍している臨床心理士(協会認定資格)、カウンセラー(一切資格なし)の方々の仕事ぶりを批判するのではなく、そういう人たちの本来の仕事が何であり、何ができないのかを明確にしておく必要がある。スクールカウンセラーを派遣すれば学校内の問題行動がすべて解消されるなどと考えたら大間違いだ。
と主張しておきたい。
 大学の臨床心理学の講座の中には、あるいは特定の流儀を無批判に受け入れ、他の方式を教えようともしないところがあるかもしれない。少なくともスクールカウンセラーを養成しようとするならば、ロジャーズ一辺倒では困る。犯罪心理学も精神医学も、それと私が推奨している行動分析学も、広く身につけ、臨機応変に最適の方式で問題行動に立ち向かえるようなカウンセラーでなくては困る。文部省も、養成校が、特定の流派に固まらず、多様なスタッフを配置するように支援をしてもらいたい。
 それから、どんなにカウンセラーが養成されたとしても、狭い部屋の中で、問題児とカウンセラーが向かい合って話をしているだけではよくなるはずがない。自立的な行動は、多様な行動を自発させ、それを強化するなかで形成されていくものだ。そのためには行動が自発できる環境を整える必要がある。机と椅子だけの部屋を用意するのではなく、釣りをしたり、家畜の世話をしたり、野菜を育てることができるような自然環境、木工や絵画のための材料、複数で遊べるようなTVゲーム、スポーツやアスレチック設備など、...こういうものを多様に準備しておけば、何かしら興味の持てる対象に熱中できるようになり、それを柱に、生活に前向きな行動が少しずつ付け加えられていくはずである。

970724(木)
[心理]クイズの続き
きのうの「企画倒れのクイズの解答」について、説明がヘタだというメイルをいただいた。そこで、まず、もういちど、具体的な例に基づいて説明をやり直したいと思う。
  1. 銀色の帽子が2個とも使われている場合、他の2人の帽子の色が銀色であることを見ている王子が必ず1人いる。銀色の帽子は2個しかないことがわかっているから、この王子は、直ちに自分の帽子が金色であると答えることができる。ここでは、仮に、「直ちに」を5秒以内としておく。
  2. 銀色の帽子が1個使われている場合(仮にA王子にかぶせられているとする)、残りの2人は(B王子とC王子ということにしておく)、金と銀の帽子を1個ずつ見ることになる。ここで、とりあえず5秒待ってみる。
  3. BまたはCはここで、自分の帽子が銀色だと仮定してみる。すると金色の帽子をかぶっている者から見れば、他の2人は2人とも銀色をかぶっていることになるから、直ちに(5秒以内に)、自分は金色だと答えるはずである。もし、5秒以内に答えを出す者がいなかったとしたら、自分の帽子が銀色であるとの仮定が間違いであることがわかるから、BまたはCは、自分の帽子が金色ということになる。そこで、BまたはCは、しばらくたって(ここでは20秒以内としておく)自分の帽子は金色であると答えられるはずである。
  4. 20秒待っても誰も答えないとしたら、銀色の帽子が2個という仮定も1個という仮定も成立しなくなるので、残された可能性は、全員が金色をかぶせられている場合だけである。よって、自分の帽子は金色であると断言できる。
つまり、この問題での心理学的前提とは、「2人銀色1人金色」の場合にはa秒以内、「1人銀色2人金色」の場合にはa秒〜b秒のうちに、必ず誰かが解答できるということである(ここではa=5、b=20)。
 仮にAが銀色、BとCが金色だとして、BもCも推理に手間取り、21秒たって初めて「自分の帽子は金色である」と叫んだとしよう。また、Aは、上記の2通りの場合をうち消した上で「自分は金色である」と断言したとする。こういう場合は、Aは間違った推理をしてしまうことになる。
 ついでに補足しておくと、3人とも金色をかぶせられた状況では、どの王子も他の2人が金色をかぶっている景色を見るので、銀色が2個使われている可能性は論理的にありえないので最初から除外できる。しかし、自分だけが銀色であるという仮定をうち消すには、相手のどちらもいくら待っても(ここでは20秒程度)解答できないという事実を知る必要があり、さらにその2人の相手が、20秒程度のうちに答えられるかどうかは(ここでは)5秒以内に相手が答えないことを手がかりに判断されるわけであるから、論理的にありえない仮定が推論の中で利用されるというパラドックス?を含んでいる。この点でもこの問題は面白いと思う。
 それから、この問題は3人の王子、銀色は2個だけという設定になっているが、「n人の王子、銀色は2個だけ」という状況であっても、同じ推論が成り立つはずである。ただ、aやbの値に個体差が出てくると、お手つきによるミスも起こりやすくなるはずだ。ついでに、「4人の王子、銀色の帽子3個」のケースで全員が金色をかぶせられた場合はどうか。おっと、クイズだらけになりそうだ。

 さて、企画倒れになってしまったクイズコーナーで出題を予定していた、もうひとつの問題というのは次のとおりである。お暇な方は考えていただきたい。
 まず、『頭の体操第2集』(多湖輝、カッパブックス)の問題10を引用する。
二人のけちな酒飲みがいる。形の違うコップが2つだけあり、そのいっぽうに酒がつがれている、この一杯を、2人で分けて飲もうということになったが、両方から絶対に文句の出ないように酒を分けるにはどうすればよいか。
 元の問題には何も書かれていないが、この問題を解くには次のような暗黙の了解がある。
 で、この答えは次のように記されている(ここをマウスでなぞれば読めるはずです)
まず、1人が、自分をどっちをとっても文句がないと思うまで、じっくりと酒を2つに分ける。つぎに、もう1人が、その2つのうち、自分のほしいと思うほうを1つ選ぶ。そして残ったほうを、はじめの男がとれば、両方から文句の出るはずがない。
 これをもとに私が考えた問題は次の2つである(但し2番目のほうは、自分でも完全な正解を出していない)。
  1. 2人のケチなお百姓が畑を2つに分けることになった。上記と同じやり方で分ければ、絶対に文句が出ないと言えるだろか。
  2. n人(n≧3)がn個のコップを使って酒を分ける場合にも、絶対に文句が出ないような方法はあるだろうか。

 締切は8月2日ということにさせていただく。公開されてもよいお名前(ペンネーム可)と日記(もしくはホームページ)のURLを添えて、ぜひ長谷川までご応募を。1問だけでもかまいません。 ええと、ば○わ○さんが、もしこれを読んでいた場合は、こっちから先に答えてちょうだいね。

970723(水)
[因特]企画倒れのクイズの答え
 4日続けて、「ホームページ更新ネタ」になってしまったが、私のホームページの企画倒れの1つに、クイズコーナーというものがある。昨年12月1日に第一問を出題したが、解答者がちっとも集まらず、半年以上がすぎてしまった【無責任な話だが、このクイズコーナーは、第2問までしか考えていなかった。】せっかく回答を寄せていただいた方には、たいへん申し訳ないことをしたと思っている。  で、第一問なのだが、問題は、

次のような帽子問題において、王子の1人が“自分は金色の帽子をかぶっている”と断言できるためには、どのような心理学的前提が必要か?

ある国には3人の王子がいました。あるとき、王様が“ここに金色の帽子が3つ、銀色の帽子が2つある。このうちのどれかを、お前たちにかぶせよう。自分の帽子の色を見ることはできないが、他の2人の帽子の色を見ることはできる。自分にかぶせられた帽子の色が最初にわかった者に王位を譲ることにしよう。”と言った。

王様は、3人の王子にいずれも金色の帽子をかぶせた。すると、しばらくして、1人の王子が自分の帽子は金色であると言った。

※このクイズの元になった問題は、心理学の入門書などによく引用されています。しかし、ここでは、単に、“王子はどうやって自分の帽子の色がわかったか?”ということではなくて、その前提となる心理学的前提を明記していただきたい、というものです。

 このクイズの正解として、私が想定していたのは、
3人の王子とも、
という2点であった。ここでは2番目の仮定が特に重要である。つまり、自分の帽子が銀色だと仮定した上で、他の2人の反応をさぐる。この仮定(仮定1)のもとで、他の2人はそれぞれ独自に自分の帽子が銀色であると仮定する(仮定2)と、3番目の王子は、銀の帽子が2個しかないという知識から、直ちに自分の帽子は金色であると判断するはずである。この判断が出てこないということは、仮定2が間違っていたからに他ならない。この時点で仮定1だけが正しいとするならば、他の2人は、「自分の帽子は金色である(仮定2の否定)」と判断できるはずである。ちょっと待ってもこの判断ができないということは仮定1が間違っていることにほかならない。よって、自分の帽子は金色であるという結論が導き出せる。
 このクイズは、純粋に論理的には解決できない。また幼稚園児3人に同じクイズを解かせても、いつまでたっても結論は出せない。場合分けした時の推理が一定時間内に完了するという前提があって初めて成り立つというところに面白みがある。つまり解答者の反応速度ということを考慮に入れた点が、いかにも心理学らしいパズルだと思った。
 で、この日記はパズルを出すことが目的ではない。パズルに解答を寄せた方がなぜ少なかったのか、ということを考察するのが目的である。この原因はよくわからないが、たぶん、訪問者がきわめて少なかったか、問題がややこしすぎたか、どちらかであろうと思っている。
 このクイズコーナーは企画倒れに終わってしまったので、用意していた第2問を出す機会を逸してしまった。Web日記としては異例であるが、明日のこの日記で、第2問を公開したいと思っております。ば○わ○さんも、ちゃんと答えてね(何に答えるべきかはご存じのはず)。


970722(火)
[因特]ホームページ開設1周年

 ホームページを開設してから1周年を迎えた。これを機会に、ホームページビッグバーンを断行しようと思っていたところであったが、あいにく数日前から風邪をひいてしまい、殆ど何も手をつけていない。1周年記念論文なるものも、多少構想はあったのだが、間に合わせることはできなかった。そこで、きょうは、日頃どうやってWeb日記を書いたり、ホームページを作成しているのか、簡単にご紹介したいと思う。なお、OSはずっとWin95。
 まず、ホームページの編集ソフトであるが、私は一貫して「Mifes」という汎用のエディタを使っている。いちおう、簡単なタグが用意されているが、これはほとんど使わない。よく使うタグは、ATOK11の辞書に漢字として登録してある。例えば「b」と入力してスペースキーを押すと「<BR>」という「漢字」が現れる。(表示の都合上、タグは全角文字で表してある)。このほか、  こんなぐあいで、必要なタグを漢字として呼び出して書き込んでいくわけだ。デスクトップ画面には、同時にNetscape Navigator Gold[Version 3.01Gold]を起動し、編集される画面を呼び出しておく。そして、エディタを上書き保存し、Netscape Navigatorのリロード、という反復の中で画面を作り上げていく。これは手間がかかるように見えるが、ワープロのドラフト画面と精細画面を切り替える程度のもので、馴れてしまえば全く苦にならない。いちど、HTML専用エディタの試用版を試してみたこともあるが、上記のやり方に馴れてしまった者にとっては、かえって小回りがきかず不便に感じる。
 次に、ファイル名とその構成であるが、これは、あとあとのことを考えて、6段階までの階層構造を気軽に実現できるよう、文字と数字を組み合わせたファイル名とした。例えば、Topページからリンクされる2番目の階層は、「h1---.html」、「h2----.html」などとし、3番目の階層では「h11---.html」、「h21---.html」などとする。この結果、たとえば「彗星特集」は「h7341-.html」という第5階層のファイル名になっている。この方式は、最初のうちは、すっきりして整合のとれた構造になっていたが、この日記のように、後から始めたジャンルは予定していた階層のどこにも含めることができず、結局「diary」の「d」をとって、「d3-latest.html」、7月の古い日記は、「d3/d3-9707.html」というディレクトリ/名前にせざるをえなかった。いまさら、名前の付け替えをするつもりもないが、将来新しいジャンルを開設できるようなゆとりをもたせておけばよかったと反省している。なお、「h1---.html」、「h2----.html」のように、ファイル名に「---」をつけたのは、ファイルを名前順にソートした時に、若い番号順にきっちり表示されることを想定したためである。これは結構役に立っている。
 ホームページを作り始めた頃は、とにかく写真をいっぱい貼り付けたり、動画GIFやbannerなどを入れて飾り立てたものだ。自分の大学内で見る限りは問題ないのだが、こういう飾りは利用環境によってはえらく時間をとらせてしまう、ということが分かった。また、現実問題として、大学の公的サーバで15MBや20MBものスペースをとるのは、いくら大学全体で開設者が少ないとはいえ、ちょっと遠慮してしまう。そこで、最近とにかく心がけていることは、文字は増やすが画像は減らす、ということである。
もっとも、大きい画像があることは、読み込みに負担をかけることには必ずしもならないようだ。私のところからだと、「わかば日記」、「杉田かおる日記」、「難破阿呆船」などは、画像があっても比較的速く読み込める。いっぽう「デーテーペー」、「よろずや談義」などは、殆ど文字ばかりなのになかなか読み込めない。

 ホームページは自分が専制支配する独裁国家であり、何でも思い通りにすればよいという人もいるらしい。とはいえ、人に見てもらう気が全くないのなら、自分のハードディスクやZIPディスク内だけで構築すればよい。やはり、インターネット上で公開する以上は、ある程度は、読み手の立場を尊重した配慮が必要ではないかと思う。たとえば、画像を張り付ける場合でも、大きな画像を直接掲載するのではなく、サムネイルや文字列をクリックした場合に限って表示するといった配慮が必要だと思う。
 私のところは残念ながらCGIを自由に使える状況ではないので、カウンタをつけていない。借り物のカウンタならいつでもつけられるが、この方式だと、カウンタの読み込みだけのために読者を待たせる恐れがある。それに、ロボット型検索エンジンが訪れたときや、間違ってアクセスしてしまった場合でも増えていくであろうから、「カウンタ=読者数」ということには必ずしもならないと思う。この点、日記猿人の「読んだよボタン」は、たいへん励みになる。ランキングであまり上「位」になると読み手を意識しすぎて書く内容に制約を受けそうな気がするが、いまのペース(毎日5〜10票ぐらい)は、「緊張もせず」「がっかりもしない」ちょうどよい数だと思っている。今後もこの調子を維持していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。

970721(月)
[因特]リンク集の点検
 7/20は、仕事をする予定で研究室に来たが、喉が痛く、930頃には家に戻って寝てしまった(ヒラリーマンさんの風邪がうつったのかなあ)。薬を飲んだせいかもしれないが、いくら寝ても起きあがる気になれない。やはりどこか体調が悪い証拠だろう。
 夜になって、いくらか回復する。頭がぼんやりしているので、ものを書くほどの気力がない。代わりに自分のホームページのリンク集の点検をした。ぴったんこさんは5月18日の日記
リンク集といっても制作する側のコンテンツの1つですので、リンクした側が責任をもってその後を確認するというのが本来の姿勢だと思います。
と指摘されているが、まことに的を射た指摘である。もっとも、私自身、リンク集を作っても半年以上、いちどもアクセスしていないというところがある。今回、HP一周年を前に、少しずつ点検し、あまりアクセスしなかった所は、バッサリ削除していこうと思う。
 点検【例によって前の晩7/20のこと】をしながら、久しぶりにアクセスしてよかったと思うところをご3つだけ紹介したい。
 まあ、こんな具合であるが、リンク集を公表するということは、メインテナンスという点では、毎日、日記を書くよりも大変なことだと思う。毎週1度以上アクセスしないような所は個人専用のインターネット・ショートカットフォルダに入れておき、面白い記事があった時だけ、こういう日記の中で紹介させていただくほうが、気楽でよいのかもしれない。その方向で、バッサリ削除を断行する予定。

970720(日)
[因特]gooはグーだ
【きのうの出来事】
 19日は、近くの運動公園で「おかやまの祭り・祭祭(サイサイ)」というのをやっていた。去年までは確か「サマー・カーニバル」と呼ばれていたものである。祭りといっても、祇園祭のように鉾や山車が出るわけではない。長崎のおくんちとか精霊船のような伝統も全くない。約70の出店と、人工降雪によるソリ遊びコーナー、お祭りステージなどがあるだけだが、なぜか、ものすごい人混みになる。
 私と息子の主要な関心事は、毎年安く売り出されるスーパーファミコンの中古カセットである。今年も、それだけを目当てに行って来た。数年前は、1本1000円、3本2000円ぐらいで売られていたが、昨今のプレステ人気でスーファミ市場が暴落したせいか、今年は1本500円、3本1000円、新品のドンキーコング3が1000円で売られていた。さっそく、併せて3000円、7本分を買う。これで、我が家のスーファミ・カセットは合計56本に達した。もし新品を定価で買ったとしたら1本5000円としても28万円もの財産になる。じっさいは殆ど中古で買っているので1本平均1500円程度だと思うが、それでも合計すれば相当の出費だ。

 7月22日は、私がホームページを開設して満1年となるので(ええと、私もいちおう国家公務員ですので御祝儀の件は固くご辞退いたします)、これを機会にホームページ全体の見直しを計画している。といっても、充実をはかるのではなく、とにかく、速くアクセスできるように無駄な画像やアイコンはバッサリ削除すること、それと、いつまでも工事中の企画倒れのコーナーは廃止することだ。2、3日で完成するものではないが、この連休から少しずつ手をつけたいと思っている。
 この見直しに関連して、じぶんのホームページがどれだけリンクされているかを調べてみた。「日記作家」にもお馴染みのgooというロボット型高性能検索エンジンでリンク先URL検索をしてみたところ、なんと189もマッチした。その殆どは、自分のページ内部からのリンク、あとは自分が登録した検索サイトなど。ただ、ちょっと驚いたのは、メイリングリストでの発言まで見つけられていたことである。うひゃー。これでは、迂闊なことは言えない。
 次に「じぶん更新日記」で語句検索をする。こちらは25件。この名前を使っているサイトは、他には見あたらなかった。「スクラップブック」のほうは、ネイミングのオリジナル性が低いので、全部で552件もヒットしている。これは多すぎて見切れない。

 遊びのついでに、「http://www.iijnet.ne.jp/bowwow/」というリンク先URL検索をしてみる。7/19の時点で、101件がマッチした。ここで面白かったのは、何と101件のうち、31件が「デーテーペーな1日」からリンクされていたことだ。はて、どこかで聞いたことのあるような日記だなあ(昨日に引き続いて、隠れテロル。密告しないでちょうだいね)。「http://www.iijnet.ne.jp/bowwow/」の最大の紹介者が「デーテーペーな1日」であるとは、何とも皮肉なことである。しかし、このおかげて、「デーテーペーな1日」の過去日記をだいぶ読ませていただいた。そうか、去年の夏も同じようなことが起きていたんだなあ。「BOWDO」の本質を理解するには、やはり「デーテーペー」を全部読まなくては...。
 この「goo」というのは、かねてより噂には聞いていたが、土日祝日のようなネットの空いた時にはすこぶる便利だ。ロボット検索の結果だから、登録しっぱなしですでに削除されているようなページは出てこない。これからも大いに活用してみたいと思う。

970719(土)
[情網]外国にも日記猿人あるのかな
【昨日の出来事】
 朝から快晴。梅雨前線が南下して大陸からの移動性高気圧に覆われたためということだが、どうやら、梅雨前線はこのまま消滅するらしい。変則的ながら、これで梅雨明けだろう。このさい、勝手に梅雨明け宣言を出しておこう。この「梅雨明け」が分かっているのか、午後には、実験室前の草地に無数のトンボが飛んでいた。アブラゼミやクマゼミも勢いよく鳴いていた。
 【付記:気象台の梅雨明け宣言は7/19に出されたようだ。今年の梅雨は、私が記憶している限りでは、一度もオホーツク海の高気圧が現れなかった。そのため、東北太平洋側での冷害は今のところない。6月の東京の猛暑も、このせいだろう。しかし、どうも太平洋高気圧の弱さが気になる。8月中旬以降に、季節外れのオホーツク海高気圧など現れないか、ちょっと気がかりだ。】

 さて、この日記でも7/17に、逆リンクさせてもらったが、さいきん、拝見してはイケンするという日記が話題になっている。ご存じのように、番号の若い順番に1つずつ日記猿人登録日記を紹介していくという壮大な企画だが、ちょっと不安がある。それは、日記を紹介するペースより、登録日記数が増加するペースのほうが速く、いつまでたっても最終回が迎えられないという不安である。私が、3月26日に「彗星日記」(現在、「仕事中に書く日記」に変身)を登録した時の番号は565であった。5月14日に、この「じぶん更新日記を登録した時の番号は694、つまり約50日間で130もの日記が増えているのである。最新の日記は7/19朝の時点で819番だから、65日経過で125の増加。夏休み開始を機会に新しく登録する人も増えてくるだろうから、このペースは衰えないだろう。
 国内の日記は、こればかりではない。大阪方面の某国立大のサーバには、しんつま日記風の面白い日記があるのだが、ご本人は決して登録なさらない。また、「三行半日記グループ」というのもある(リンク許可はもらっていないので、直接リンクは避けるが、このページのリンク集から容易に到達できる。このグループには、なぜか、日記猿人では超有名な方の日記が登録されている)。
 国内にこんなにたくさんあるのだから、海外にもきっと、いろんな日記があるに違いない。しかし、外国のサイトは、自分の専門以外には殆どアクセスしたことがないので、その手がかりすらつかめない。とりあえず、Yahooのアメリカ版で「link diary」という検索語を入れてみた。34個のカテゴリーがマッチしたが、はて? それらしきものは見つからない。それではと、今度は「diary」だけで検索してみる。7カテゴリー、394サイトがマッチした。もっとも、これらは必ずしも個人日記ではないらしい。よし、それならこれでどうだ!「personal diary」。ふむふむ、これで91サイトがマッチした。
 あんまり面白そうな日記が見つからないので、再度「diary」だけをあたってみる。
 きょうは時間がないので、ここまでにしておく。果たして、外国にも「日記猿人」のようなものがあるのだろうか。同じように、アンケートとか、それに対する不正投票とか、あるのかなあ。日記読み日記とか、それに対する逆テロルなどもあるのだろうか。どなたか、ご存じの方がいたら、長谷川までぜひ教えていただきたい。外国の日記のテロルだったら、どうせこちらの日本語なんて読めやしないから、言いたい放題なんだがなあ。

970718(金)
[一般]おもちゃ箱列車の夢
 きのう17日にネクタイの着用率のことを書いた。たまたま18日の朝日新聞朝刊を見ると、「安田病院の家宅捜索に入る大阪地検の係官」という写真が掲載されていたが、周囲のカメラマンがTシャツ・ジーンズ姿なのに対して、係官は背広にネクタイ姿で、いかにも暑苦しい。確かに人様の家に公権力を行使してむりやり入っていくわけだから、Tシャツ姿では無礼にあたるということなのかもしれないが、背広は確か私物でサラリーマンの必要経費には入っていなかったように思う。暑苦しいうえに、証拠品を詰め込んだ段ボールの運搬ですぐにボロボロになるだろう。ひょっとして、量販店の980円の背広を着ていたりして...。もっとも、地検の係官が警官と似たような制服をしていると、いかにも権力行使の印象が強くなる。このあたりの判断が難しいところだろう。

 さて、金曜日の話題というと、どうしても木曜夜の「TVチャンピオン」を話題にしたくなる。今回は、おもちゃの選手権だった。
 特別の事情がない限り、人は、人生で3回、おもちゃに接する機会があるはずだ。1回目は、子どもの時、自分で遊ぶおもちゃ。2回目は、自分の子どもに与えて一緒に遊ぶおもちゃ。3回目は、孫に与えて一緒にあそぶおもちゃである。
 私の子どもの頃のおもちゃは、たいがい西岸良平氏の「三丁目の夕日」に描かれている。もっとも、私の家庭は貧乏だったのか清貧志向だったのか、あるいはもともと物がない時代だったのか、あまりおもちゃを買ってくれなかった。当時はダッコちゃんとかフラフープが流行ったようだったが(おお、何と古い!)、私の家にはそういうものはなかった。善し悪しは別として、ごく幼少時に遊んだ積み木と雑誌の付録類ぐらいしか記憶に残っていない。そのうちに、だんだんヒネてきて、「欲しい物を我慢する」ことから「物を欲しがらない」少年になってしまったようだ。
 誰でもいちど、大人になる前に、「おもちゃ箱列車」が自分の前から遠ざかり、それに乗っている自分のおもちゃ達がバイバイと手を振っている夢を見るものだ、と聞いたことがある。とってもロマンチックで悲しい話だが、私自身はそういう夢を見たかどうか、定かではない。

 「2回目の機会」では、ずいぶんいろんなおもちゃを買った。少し買いすぎであったかもしれない。5-6年前には、レゴの組み立てを手伝わされた。その後は、もっぱらファミコンだ。中でも、息子と一緒に遊んだファイナルファンタジー4と、ロマンシング・サガ(1)は、生涯忘れられない名作であったと思う。
 2回目の機会も、そろそろ卒業の時期に来ている。実際、5-6年前までは、デパートに行けば、まずおもちゃ売場で子どもの喜びそうな物を探すのが楽しみであったが、最近は、全く縁がない。
 3回目の機会は、20年後ぐらいにやってきそうだ。日本人の平均寿命から言えば、まだ生きているはずだが、癌家系でもあるため、あまり期待していない。1回目の機会ではあまり遊ばず、2回目の機会も、仕事が忙しくてそれほど相手をしなかった。3回目の機会があれば、思い切り遊んでみたいと思うが、長男の嫁と-舅の関係とか、娘婿との関係とか、いろいろ難しい問題がありそうだ。孫と同居する可能性も少ないし、だいいち、一生独身を通すとか、子どもを作らないと宣言することだってありうる。あまり期待しないでおこう。かりに3回目の機会があっても、「おもちゃ箱列車」が自分の前から遠ざかる夢を見るのは孫たちだ。そして、たぶん私自身は、その「おもちゃ箱列車」に一緒に乗り込んで、この世界から消えていくのだろう。

<補足>上記の「おもちゃ箱列車」の話は、妻から聞いた話だったので、これを書いたあとで確かめてみた。妻自身もはっきり覚えていないそうだが、子供の頃に読んだ児童書の作品で、私が聞き取った範囲では次のような内容。正確な作品名をご存じの方は、長谷川まで教えていただければ幸いです。
 ある時、貨物列車が家の中を走っている夢を見た。その貨物列車には、昔遊んだおもちゃがいっぱい積まれていた。よく見ると、運転士は、死んだお父さんだった。ああ、懐かしい!と思って着いていくと、その列車は庭のほうに出ていって突然消えた。煙のニオイがするなあと思って目が覚めると、庭先でおばあちゃんが、私が昔遊んだおもちゃを燃やしていた。【7/19若干修正】



<970717補足>
拝見してはイケンするのリンクから来られた方へ: あの日記で、引用されていた部分は、7月16日の日記だと思います。念のため。なお、ぴったんこさんの日記として引用されているのは、たぶん、こちらのことを示しているのだと思います。最新の日記だけを参照すると、「支払い遅延ばかりやっている東京人は逞しい」という結論になってしまいますねえ。それでも結構ですけれど...。

970717(木)
[一般]東京人は逞しい

 きょうは文学部の会議があり終了後は恒例のビール飲み大会があった【注:この日記は前の晩に書いているので、こういう表現になってしまう。いずれ、日付修正の予定】。私はアルコールを飲む習慣がないので、たまに飲むとすぐ眠くなる。で、きょうは軽い話題を心がけたい。

 文学部の会議で、何か1つぐらいデータをと考え、ネクタイの着用率を調べてみた。会議が始まる直前に数えたところ、男性教官52人のうち、着用者は6人、着用率は11.5%であった。大学の教官の比率はこんなものだろうか。
 私は、もちろんネクタイなどつけない。夏は半袖のポロシャツ。冬は、普段着にジャンパー姿で通勤する。四季を問わずサンダル履きで、革靴など無縁だ。授業の時は、白衣を着て服装の乱れをごまかす(白衣姿をご覧になりたいという奇特な方は、こちらでもどうぞ)。【もっとも、学外の非常勤講師に行くときだけは、ちゃんとネクタイをしめて、革靴で授業をしている】。
 岡山大学の特色の1つは、教職員の公務員宿舎が大学敷地内か隣接敷地内にたくさんあることだ。かなりの職員は、歩いたり、自転車に乗って通勤する。昼間には、アパートに戻って食事する人も多い。そのせいもあって、私ほどラフではないが、みな似たりよったりの格好をしている。東京の大学では、おそらくこういうわけにはいかないと思う。どなたか調べてもらえたらありがたいが、ネクタイ着用率は、遙かに高いのではないだろうか。

 ところで、私の日記が土・日の朝にも更新されているので、よっぽど勤勉な人だと思われるかもしれないが(ウソウソ)、何のことはない。アパートから散歩がてらに農学部の農場のなかをぶらぶら歩いて研究室に立ち寄り、必要なファイルをアップし、実験動物の餌やりをして帰っているだけのことだ。道のりは片道で1300メートルほど。ちょうどよい運動になる。そんなこともあって、通勤・通学ラッシュなどには全く縁がない。
 東京で学会がある時には世田谷の実家に泊まる。そんな時だけ、満員のバスや電車に乗り込むことになるが、ふだん鍛えられていないせいか、戻ってくるとひどく疲れる(それに目やのどが痛い)。こんなことを毎日繰り返していたらきっと病気になってしまうだろう。この日記を読まれている方の中には東京や大阪で生活しておられる方も多いと思うが、私から見れば「生活している」というだけでも、ものすごく逞しい人のように感じられる。
 ついでながら、たまに東京に行くと、思いがけないことが起こる。1つは、右肩に赤い痣ができることだ。これは、ショルダーバッグのようなものを持ち歩くせいだ。ふだん、私は、手ぶらで、もしくは実験用のハムスターに与えるクズ野菜をビニール袋に入れて歩く程度で、決してカバンなど持ち歩かない。もう1つは、もっと滑稽な話だが、渋谷あたりとぶらぶらしていると、しょっちゅう腕がぶつかる。これは、岡山で手を大きく振って歩いているためであろうと思う。
 アルコールのせいで、とりとめもない文章を書いてしまったが、私は東京には住めない人間だ。東京は、私が生まれて18年間育った場所ではあるが、もはや私の故郷とは言い難い。同時に、いま「現地」に住んでいる人々の逞しさを感じずにはいられない。
<補足>朝方、酔いが醒めたところで、誤字や語句を多少修正した。

970716(水)
[心理]「迷惑行動」実は「こだわり」
 私は、毎朝「スクラップブック」を書くことを習慣にしているが、時間が足りずコンピュータ入力を諦めた記事もたくさんある。こういうものは、切り取って文字通りのスクラップブックに保管する。きょうは、その中の自閉症者についての記事を紹介したいと思う。この記事は、例によって朝日新聞家庭欄(6/21)からの切り抜きである。
 自閉症の男性と両親の姿を実名で描いた本「誠吾君、街を駆ける」が出版され、地域の中に理解の芽が生まれている。主人公の誠吾さん(24)は一時、他人の家に入って小銭を取ってしまう行動があり、両親は「ひもで縛っておけ」との声も浴びていた。著者である支援施設の指導員は「親子が地域で暮らし続けるには、近くの住民に症状への理解を深めてもらうしか手がなかった」と話す。
.....
 十代後半になると、他人の家や店に入り、無断でトイレを使う行動も始まった。暴力はふるわないが、驚いて警察に通報する人々もいた。
 謝っても、一部の住民や店員からは「施設に入れとけ」「なぜ普通の場所にこんな人間を住まわせてるんだ」などの言葉が浴びせられた。
 圭子さん【長谷川注:誠吾さんの母親】を最も苦しめたのは、缶コーヒーへのこだわりだった。二十歳を超えたころから、なぜか一日に何本も買うようになり、そのために店や他人の家で小銭(220円、660円など)を取るようになってしまった。<悪いことをしている>との意識は見られなかった。小遣いを増やしたり、店の前に同学園の職員とともに監視に立ったりしたが、完全には止められなかった。
 警察に通報され、関係者に「縛ってでも店に来ないようにしてくれ」と言われた。
 万策尽きて、96年初めには、生活施設に入所させることにした。だが誠吾さんは家に帰りたがり、脱走した。
 幸い最近は、自転車を無断便用する回数が減った。乗っても元の場所に戻す。缶コーヒーヘのこだわりも減り、小遣いの範囲で大体収まつている。「成長しているようです」と華子さんはいう。


 私は、長崎に勤めていた頃に、何人かの自閉症児を相手に、漢字を教えたり、こだわりを減らす訓練法の開発に取り組んだことがある。自閉症にもいろんなタイプがある。実験室にいる間じゅう、大声で「エヌ、イー、シー」(当時流行ったNECのコマーシャル)を繰り返す子もいた。建物のすべての階のスイッチを順番に押していく子もいた。何かの訓練をする場合でも、儀式的な行動が非常に重要で、時間がないからといって、何かを省略したり、いつもと違う順序で行うと突然泣き出す子もいた。
 小学校高学年になると体も相当に大きくなる。時に、親や兄弟に暴力をふるう子供も出てくる。それがひどいときには鎮静剤のようなものが処方されるが、こんどは半分眠ったような表情になって何も反応しなくなる。
 母親はたいへんだ。送り迎えのほか、子供が帰宅してからもいろいろな場所に付き添う。それでも家族は一丸となって、子供を守る。
 まあ、とにかく、いろんなことが起こる。初対面の時から突拍子もないことをされると不快になるのは当然のことだ。しかし、相手の儀式的な行動の特徴や、好きなこと・苦手なことがわかれば、けっこう、うまくつき合える。しだいに相手に会うのが楽しみになってくる。
 ここまで書いてきたが、じつは、私は、そういう子供たちやご家族の生活のほんの一端しか知らない。たぶん、そういうご家族がこれをお読みになったら、「長谷川さんなんて、ちょっと首を突っ込んだだけじゃないか。本当の苦労が分かってたまるか」と言われるかもしれない。

 いま、私の周辺には、誠吾君のような人はいない。一時期、近所の小学生の男の子が、アパートの4階にある私の家に、毎朝ウンチをしにきたことがあるくらいだ(これは、こだわりではなく、アパートの前を通る頃に便意を催す条件づけが形成されたものと思う)。誠吾さんのような人物がいた場合に、「ひもで縛っておけ」とか「施設から絶対に出すな」と考えるのは自然な気持ちであろう。とはいえ、できる限り排除や隔離は避け、包容力のある社会を作り上げることもまた、我々に課せられた課題である。口でいうほど簡単ではないのだが...。

 さて、ここから先は少し、自信のないことを書く。上の事例で、地域社会が誠吾さんを許容し、ちょっとぐらい、小銭を盗みに来ても自転車を無断便用しても、問題視しなくなったとする。こうすることは、本当に排除の否定になるのだろうか。形式的には、同じ空間の中で許容しあうのだから、排除とは言い難い。しかし、同時に「あの人は特別だ」と見なすことは、ルールが適用される集団から排除することでもある。
 これは一般の刑事事件でも言えることだ。裁判で、刑を宣告するということは、ある意味では、容疑者に善悪の判断ができて責任能力があることを認めることでもある。4月15日のスクラップブックにも引用したが、“精神障害者が「病気」と認定された場合、免責されたり、刑が軽くなるのは、逆差別のようなものを感じる”という見解もある。

 さらに話題を広げてみよう。
 ある集団の中でたびたび問題を起こす人がいたとする。Aさんは、その人にペナルティを課すことを要求したり、釈明や謝罪を求めたとする。いっぽうBさんは、「あの人は何を言っても謝罪する人ではない。ほうっておけ」と主張したとする。この場合、どちらが「急進派」で、どちらが「穏健派」と言えるだろうか。
 一般的には、釈明や謝罪を求めるというのは非常に強硬で排他的な印象を与える。しかし、釈明を求めるということは、該当者がちゃんと議論ができる人物だと認めた上で成り立つ行為であって、相手が一人前の人間であることを認めている証明でもある。つまり、相手と同じ高さから、繰り返しラブコールを送っているとも言える。いっぽう、「ほうっておけ」と主張することは、いっけん寛容なようで、じつは、
あの人は、じぶんの主張を筋道たてて展開したり、まともに議論に参加することができない人間だ。
と断定しているようにも受け取れる。
 特別扱いするということは、相手を対等の位置から引きずりおろすことには、ならないだろうか。あいまいに許容するということは、もはや相手を一人前とは認めず、実質的に、切り捨て、排除していることには、ならないだろうか。あまり自信はないが(自信がないので、撤回するかもしれません)、ふとこんなことを考えた。

970715(火)
[心理]少年の凶悪犯罪とTVゲーム
神戸の児童殺害事件に関連して、TVゲームが悪影響を及ぼしていると誤解されない論調が散見される。今朝(7月15日)の朝日新聞にも、「死も仮想、現実感なし」という見出しの特集記事があった。ここで取り上げられている事件は、今回の神戸の事件ではなくて、数年前に起きた中学3年生による両親殺害事件である。概略は次のとおり。
この生徒は、自室で「最終(ファイナル)ラウンド 開始(スタート)」とノートに書いた直後に両親を殺害した。死を見届けてから、自分の手首を切り、冷蔵庫の扉に「目標達成おめでとう」と血で書いた。当時は、「貧しい生活」をもたらした両親への怒りが暴発した事件だとみられていたが、自室から見つかった日記に殺害計画や動機が詳細に綴られていた。それは、細かい字で約20ページに及ぶ。凶器に使ったサバイバルナイフのことを「伝説の武器入手」と記し、ほかに「防具」「クリア」「設定」...といったテレビゲームの用語が並ぶ。この生徒の場合、特に「ドラクエ」が好きだった、と精神鑑定で話した。

 この種の論調では、条件付確率判断における錯覚がおこりやすい。じぶん更新日記の7月8日の記事でベイズの定理にふれたように、「凶悪犯罪を犯した少年にTVゲーム愛好者が多かった」としても、このことから、「TVゲーム愛好者が凶悪犯罪を起こしやすい」という結論は見いだせない。このことをしっかり理解しておかないと、「だからテレビゲームは、ダメなのよ。」といって子どもからゲーム機を取り上げる親が出現しかねない。
 スーパーファミコン版のドラクエであれば、私自身、息子と1,2,5を遊んだことがある。こういうゲームに熱中するのは、行動に対して、その内容に応じた結果が直ちに、確実に随伴するからであろう。このこと自身は、むしろ、子どもの向上心を育てる働きがあるように思う。少なくとも、何をやってもダメだ(しばしば「学習性絶望感」、「学習性無力性」、「learned helplessness」などと呼ばれる)という子どもが、こういうゲームに熱中すれば、「やればできる」という自信を取り戻せる可能性がある(もっとも、ゲームの操作方法がわからなければ、ますます自信をなくす)。これ自体は、決して悪いことではないと思う。
 あとは、現実の自然にふれたり、集団にまじわる機会を親がどれだけ与えているのか、ということにかかっているのだろう。
もっとも、私自身、親として成功しているかどうかはわからない。5年ほどまえ、息子を子どもだけのキャンプに送り込んだことがある。迎えに行って最初に発したのは、「ねえ、お父さん。オクトマンモスとスカルミリョーネとどっちが強いと思う?」という言葉だった【これはドラクエではなくファイナルファンタジー4の話。おっと、私がファミコンで遊んでいたことがバレてしまいそう】。ただし、最近は、宿題が山ほど出ることもあって、TVゲームをやる暇はあまりないようだ。

 TVゲームが子どもの発達にどういう影響を与えるのかは、心理学としては、なかなか難しい検討課題である。1つには、数年以上にわたる追跡調査が難しいと言うこと。心理学の世界で論文の量産至上主義が横行するようになると、数年もかけて調査する研究は割がわるい。短期間でデータが集められる質問紙調査にはしる傾向があるが、これだけで影響はつかめないと思う。第2に、TVゲームという概念そのものが、ソフトやハードの向上によって常に変化しているためである。ある調査で「TVゲームは子どもに○○という影響を与える」という結論が出たとしても、10年後のTVゲームについて同じことが言えるかどうかは全く保証できない。そのほか、TVゲームにも、いろいろなRPGやアクション、シューティング、シミュレーション、パズルなど様々なジャンルがあるので、それらの影響を一緒くたに論じるわけにはいかないという問題もある。

970714(月)
[心理]楽しいことを突然やめてしまうのは何故か
 楽しいと思って始めたことが、だんだん義務的に感じられるようになり、ついには、やめてしまうということがある。こういうことがどうして起こるのか、長年疑問に思っていた。
 現在、私が見出している最良の解は、「好子(コウシ)出現の随伴性」が「好子消失阻止の随伴性」に転化するという考え方である。これについての基本的な考え方は、公用ホームページに示してあるが、ここでは、特に、Web日記を書き続ける行動との関連で、考えたことを述べたいと思う。
 まず、私の基本的な考え方は、行動随伴性という概念に基づいている。楽しいと思って続けている行動というのは、何かしら結果を伴っていると考えるわけだ。ここで、結果として出現する事象のことは好子と呼ばれる(「コウシ」と読む。原語はpositive reinforcer。この訳語は未だ試用段階であり、一般には「正の強化子」と呼ばれている)。
 たとえば、小鳥をペットとして育てたとする。この場合、育てるという行動には、小鳥の可愛らしい動きやさえずりという事象(=好子)が伴っている。ハムスターも、イヌもネコも同様だ。昨年来、流行している(らしい)「たまごっち」も、「育てる」行為に、それに見合った結果が確実に伴うから、楽しさを感じるのである。これらは、いずれも「好子出現(提示)の随伴性」と呼ばれている。
 ところが、ペットの世話は、気の向いた時だけやれば済むというものではない。小鳥は1日でも餌や水をやらないと死んでしまう。どんなに体調が悪くても、忙しくても、毎日、餌やりや鳥かごの掃除をする必要がある。この場合の「餌やり」や「掃除」という行動は、「小鳥の可愛らしい動きやさえずり」という結果の出現によって維持されるものではない。小鳥が病気になったり死んだりすることを阻止する目的で行われている。つまり小鳥という好子が消失することを阻止するための行動である。これは「好子消失(除去)阻止の随伴性」と呼ばれている。
 たまごっちを手にしたことがないので、これはあくまで推測にすぎないが、このおもちゃは、たぶん、上記の「好子出現(提示)の随伴性」を最大限に保証しつつ、「好子消失(除去)阻止の随伴性」を最低限に抑えたために流行している(らしい)のではないかと考えている(本物のペットと違って糞掃除は不要。万が一死んでも、リセットすればまた育てられる)。

 花壇で花を育てる場合にも同じようなことが起こる。種を蒔いて、水をやる。双葉がひらき、芽が伸び、蕾がふくらんでいくという結果は、まことに楽しいものだ(=好子出現の随伴性)。しかし、実際に、広い花壇で花を育ててみるとわかることだが、その途中では大変な苦労が伴う。まず、日照りが続けば、毎朝、水やりをしなければならない。雑草がいやというほど生えてくるので、これを抜き取らなければならない。害虫や病気が出れば薬をまかなければならない。これらは、みな、花という好子の消失を阻止する随伴性によって維持されているのである。
サラリーマンの仕事も、たぶん同じようなことが起こりうる。最初は、自分の適性を考え好きな仕事を選んだ人であっても、時には、仕事がつまらない、のんびり休暇をとりたい、と考えることがあるだろう。しかし、今、仕事をやめると給料がもらえなくなり、家族は路頭に迷うことになるので、やむを得ず働き続ける。こうなると、その人にとって、仕事をすることは、給料という好子提示の随伴性によって維持されているのではなくて、“仕事をやめれば給料を失う”という、好子除去阻止の随伴性によって維持されるようになるのだ。

 ところで、好子には、生命維持に欠かせない「非学習性の好子」と、経験を通じて好子としての性質を獲得した「学習性の好子」とがある。前者はゼッタイに失うわけにはいかないが、後者は、好子としての機能がなくなれば、失ってもどうでもよい存在になってくる。上の例で、ペットや花は生命維持にゼッタイ不可欠という存在ではない。つまり学習性好子だ。好子消失阻止の随伴性によって維持される行動に苦痛が付随するようになってくると、好子消失阻止に全力を傾けるよりも、好子であったものをどうてもよい存在に変えてしまったほうが気が楽になる。これが、おそらく、楽しくて始めたことを突然やめてしまう原因だと思う。
 Web日記を書くという行動をイヤイヤ始めた人は、まずいないだろう。少なくとも、書き始めてしばらくの間は、「好子」が出現するという結果によってその行動が維持されていたはずである。この場合の好子にどういう種類がありうるか、ということについては、7月2日の日記を参照していただきたい。
 楽しく書いていた日記に義務感を感じるようになった方は、「好子消失阻止の随伴性」のコントロールを受けるようになった証拠である。この場合、「失うと困る」ことが必ず存在しているはずだ。失うことを阻止するように行動しているから義務感が出てくるのだ。そうなった時には、「書くのをやめたら、何を失うのか」ということを見つめ直してもらいたい。日付に空白ができることを阻止している人もいるだろう。日記猿人のランキングで、毎日の得票が上位だった人の場合、得票自体が唯一の好子になってしまった人もいるかもしれない。そうなると、自分のための日記は書けない。得票の消失を阻止するために、書き続けることになってしまうのである。
 失うことを阻止するために日記を書くことに疲れた方は、もういちど初心にかえって、「日記を書くことで出現する好子は何であったのか」を問い直してもらいたい。書くことに内在する結果であれ、付加的な結果であれ、出現するものが見つかれば、気軽な気持ちで書き続けることができるはずである。もういちど言う。「失うことを阻止するために書く」のではない。「得るために書く」のである。

<補足>何かに反発して、日記を書くのをやめるというのは、まことに空しいことだと思う。何かしら得るために日記を書いていた人は、周囲で何がおころうと、日記を書き続けるはずである(Web上で公開を続けるかどうかは別の問題であるが)。【ええと、この日記は、13日の夜に書かれたものです。私は13日の午後から14日朝までネットに接続していません。ここに書いた文章は、ここ2週間程度の間にWeb日記をやめられた方々を想起して書かれたものではありません。】


<もうひとつ補足>7月12日付のわかば日記さん:
上田完さんが「日記猿人」を去ることを決めた。井筒屋主人さんも、colonさんも、最後通牒を突きつけ、上田さんの後を追う気配も濃厚である。YESさんも、YHoriuchiさんも、かな。あっ、岡山大の長谷川さんも、か(「原状回復を要求します!」と主張し続け、スタア様によって「日記猿人」を追放された静岡大の長谷川さんは、3月から元気に〈でもないか〉復職している。「日記猿人」はもうコリゴリだそうだ。久々に事件経過特設日記をリンクしとくか)。
むむ? なんで「長谷川さんも、か」になるのか? それらしきことを言った覚えはないし、だいいち、日記猿人をよりよいものにと思って、アンケート関連の議論に参加している者が、なんで去らねばならないのだろうか? たぶん、静岡大の長谷川さんという方とのイメージのダブりがあるのかもしれない。このさい、やっぱり、“長谷川芳典”の本名をやめて、“ハセピー”に変更しようかなあ。

970713(日)
[物語]消えた、ちびくろサンボ
 昨日の話で、小学館の『ママお話きかせて』という本を引用させてもらった。この本は、春、夏、秋、冬の4巻揃いになっているが、冬の巻(現在絶版?)を除いて、我が家には2冊ずつある。1冊目は、息子が生まれた時に、私の母がお祝いに買ってくれたもの。もう1冊は、つい10日ほどまえに、私の父が娘の誕生祝いに買って送ってくれたものだ。私の母は9年ほど前に癌で亡くなっているので、今回、父は独自の判断で本を選んでくれたようだ。それが、昔、母が選んだ本と同じものであったということで、妻が、宅配便を開けた時に、「夫婦は同じようなことを考えるものね」といって笑っていた(このことは父には内緒にしてある)。
 息子が生まれた時に貰った本と、今回、娘の誕生祝いに貰った本は、全く同じように見えたが、きのうのジャックと豆の木の引用のあとで目を通してみたところ、唯一、8月6日のお話だけが、『ちびくろ・サンボ』から『悪魔のつくった橋』という話に置き換えられていた。12年前の本は、昭和45年初版発行、昭和62年初版第29刷発行となっていて、ISBNは4-09-255002-2。いっぽう、今回貰った本は1996年初版第38刷発行となっていて、ISBNは同じ番号が割り当てられている。つまり改訂版ではないのだが、このページだけがすり替えられているのである。
 これは、もちろん『ちびくろ・サンボ』が人種差別を助長するとして、アメリカで問題にされたことによるのだろう。『ちびくろ・サンボ』は、岩波子どもの絵本として岩波書店から発行されものがある。これまた私の父母が、10年ほど前の息子の誕生日に選んで送ってくれたことがあり、我が家の書棚に残っている。この本は確か、岩波書店自身が絶版にしたと聞いている。
 この種の処置は、最近話題になっているプロバイダによる特定ページ・掲示板などの強制削除、削除勧告などと共通の問題を含んでいる。
 きょうは時間がないので、問題提起にとどめておく。なお、ちびくろ・サンボについては、信州大の守さんが、実証的な研究を行っている。こちらを参照されたい。改作版の紹介もある。

970712(土)
[物語]理不尽な童話は青少年に有害か?
 いま執筆を中断(ですよね)されておられる伊藤さんの6月16日の日記に、理不尽な童話というお話があった。じっさい童話には理不尽を感じさせるものが多い。太宰治は『かちかち山』のお話に理不尽を感じて『御伽草紙』を書いた。河合隼雄氏も御自分の立場から、童話の「深層心理」のような話を書かれている(『昔話の深層(文庫版)』、講談社+α文庫、1994年)。
 私が理不尽だと思うのは、ラング世界童話全集の第1巻『みどりいろの童話集』にある『カーグラスの城』という童話である。これは、確か小学校低学年の頃に読んだものだが、先日、岡山の古本市場という古本屋で、100円均一の棚から同じ物を掘り出すことができた。
 この物語は、ペロニックというみなしごの少年が、ロージャーという魔法使いが住むカーグラスの城に潜入して、“黄金の水入れ”と“ダイヤモンドの槍”を手に入れる冒険談である。お城にたどり着くまでには、まず、わざわいの森と通り抜け、次に妖精のコリガンが守るリンゴの木からリンゴをもぎ取り、マムシのたてがみをもつライオンの所から“笑う花”をつみとらなければならない。さらに、竜たちの住む湖や、黒人が番をする谷、よろこびの谷などを通り抜けなければならない。ペロニックは、それらすべてを奇策を駆使して乗り越え、ロージャーを殺して、見事に宝物を手に入れるのであった。
 この話には、どこにもロージャーという魔法使いの悪行は書かれていない。したがって、ペロニックがやったことは、住居侵入・強盗殺人以外の何物でもないのだ。桃太郎とはエライ違いだ。ペロニックの知恵と奇策に面白さがあればあこそ、いまなお子供に読みつがれているのだろう。
 じつは、有名な『ジャックと豆の木』にも腑に落ちない点がある。これも基本的には、ジャックが窃盗をはたらく話である。これでは、あまりにも悪すぎるので、とりあえず、大男は“人食い鬼”で、ジャックが盗んだ宝物は死んだお父さんの持ち物であった、などという説明がくっついていたりする。しかし、ジャックが宝物を盗もうと思ったのは、純粋な物ほしさであって、決してお父さんの敵討ちのつもりではなかったはずだ。もし、お子さんからこういう説明を求められたら、パパさんやママさんは、どう説明するのだろうか。

 昨今、少年の凶悪犯罪増加(実は、増加を示す数的な根拠は、いまひとつはっきりしない)を口実に、ビデオ、漫画、ネットなどの規制を主張する動きがある。スクラップブックや、このじぶん更新日記で何度か書いたが、その論調はしばしば短絡的で、残酷な描写が残酷な犯罪を引き起こすといったたぐいのものだ。それを言うならば、この『カーグラスの城』も、住居侵入・強盗殺人を誘発するという理由で、有害文書になってしまう。『ジャックと豆の木』も、ひいき目に見ても非合法的な私的復讐行為である。そんなことを考えていたら童話など読めない。
 おそらく、ヨーロッパの童話の世界では、他の民族から物を奪い取ることは必ずしも悪ではなかったのだろう。いずれにせよ、童話を読む子供に、道徳の訓話をたれてもしようがない。いまふうの民主主義や平和主義、あるいは一昔前の勧善懲悪や道徳主義や報恩主義を持ち出さず、あくまで、登場人物の知恵や勇気、ストーリーの展開の面白さだけを純粋に楽しむのが童話の読み方なのかもしれない。
 泥棒や殺人の童話を聞かせたからといって、犯罪行為が助長されるなどとは、誰も思わないし、実際、その危険性は皆無であると言ってよいだろう。このことからも、神戸の事件を口実にしたメディア規制論には、慎重な対応が望まれる。

970711(金)
[一般]もしも私が家を建てたら
 昨日に続いて、TV番組関連の話題になってしまったが、昨日木曜日1930からは、TVチャンピオンを視た。今回は“ガーデニング王”であった。
 私は子どもの頃から土いじりが好きで、暇さえあれば、実家の庭で遊んでいた。庭にある植物は、庭木でも雑草でも何でも図鑑で調べた。庭にはまた、いろいろなチョウや蛾、甲虫がいて、アゲハはもちろん、少々気味の悪そうなスズメガの芋虫なども育てたことがある。カエルもトカゲもいたし、幼少の頃には、まだモグラも出たことがあった。高校を卒業してからは、下宿生活。結婚してからは、借家を1年借りた以外は、もっぱらアパート暮らしである。庭というものを失ってから四半世紀以上が経ってしまった。
 いまのアパート暮らしがいつまで続くか分からない。ただ、息子も来年は中学生になるので、そろそろ個室が必要かと思う。資金はほとんどゼロに等しいが、庭付きの中古住宅でも手にはいればなあと思う。
 新しく庭を作るとしたら、どんな庭がいいだろう。部分的には、いろいろな草花の種をミックスしたものを蒔いて季節の花を楽んだり、家庭菜園を楽しんだりしてみたいが、いちばん欲しいのは、大きな池だ。池と言っても錦鯉を飼うためではない。水深は20cmぐらいでよい。池の底にはたくさん土を入れて水草を植え、近くの田んぼから、ドジョウやメダカを採ってくる。オタマジャクシ、ヌマエビなどもよい。そして、池の周囲には草むらをつくる。マツムシやスズムシなども棲みつくといいなあ。そのまわりには、地味な山野草を植え、季節に敏感な庭木を少々。
 もっともこんなに広い庭をもてるかどうかわからないし、数年楽しんだだけで、痴呆化してしまい、介護つき老人ホームに入れられてしまうかもしれない。人生はしょせん借家住まい。あんまり夢がないけれど、それが本質かもしれないと思う。

970710(木)
<日記猿人読者限定 ちょっとお遊び>

私も遊んでみました。よろづや談義


970710(木)
[心理]記憶力の悪い私
火曜日の19時から「炎のチャレンジャー」という番組をやっている。このなかに「おじいちゃんの絵」というコーナーがある。お年寄りの夫婦や友達どうしが出演する。出題された事物をおじいちゃんが絵に描き、おばあちゃんがそれを当て、10問とも正解すれば100万円がもらえるという内容だ。おじいちゃんの絵が、あまりにもヘタヘタで思わず笑ってしまうところにこのコーナーの魅力がある。
 一昨日の番組のあと、家族で同じゲームをやってみた。息子が出題し、私が絵を描く。これを妻と娘が同時に答え、どちらが正解が多いか競うというものであった。おじいちゃんの絵を見て噴き出していた私も、いざ、自分で絵を描くとなると上手に描けない。で、じっさいにどんな絵を描いたかということだが、そのうちの3枚を紹介しておこう。こちらはサザエさん、こちらは、ちびまるこちゃん。これはトトロ。あとで、本物の絵と比べてみたが、絵もヘタヘタながら、アナログ的記憶がひどく悪いということも一役買っているように思う。
 記憶力が悪いことでいちばん困るのは、学生の顔をなかなか覚えられないことだ。毎週1回、1年間顔を合わせている学生であっても、顔と名前が一致しない。3回生の顔は、後期になってようやく半分ぐらい覚える(15-16人中)。4回生の顔はさすがに全員を覚えるが、時として人違いをする。今年の4回生には、なぜか“みほ”さんと“みほこ”さんが合計4人もいて、ますます混乱のもとになっている。私の記憶“障害”には学生も理解を示していて、人違いをしても教育不熱心と思われることは、なくなってきているようだ。
 もっとも、どんな人でも、使わないとすぐ忘れることに変わりはないと思う。以前、妻に国名入りの世界地図を描いてもらったことがあるが、これは相当にひどいものだった(残念ながら公開許可がおりない)。また、長崎につとめていた頃、東京や愛知県の知人に長崎県の地図を描いてもらったことがあった。これは殆ど全滅だった。あなたは、何も見ずに、白紙の上に長崎県の地図が描けますか?

970709(水)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(12)わかりまへんことはわかりまへんちう勇気
 人は、意外な現象があるとすぐに説明を求めたがる。さいきんも、こんな話を聞いた。  しかし、実験室の中ならともかく、無限に近い要因が複雑に作用して生じる現実の世界で、たった1つの原因によってある現象が起こったと考えるのは、そもそも無謀ではないかと思う。
 現実の世界では、多数の要因が同じ程度に作用して生じる場合がある。こういうものは、ふつう“偶然に起こった”現象と呼ばれる。“偶然”というのは、物事の最終原因を表す言葉としては必ずしも妥当ではないが、少なくとも、“この出来事は、そんなに単純な原因だけで起こったものではありませんよ”というへりくだった態度を表明していると受け止めることもできるだろう。
 何か、物事が起こった時、マスコミはすぐに専門家の説明を求める。おだてられた専門家は、不確かな情報に基づいて、ごく少数の要因だけでそれを説明しようとする。ほんとうは、“これは複雑すぎて一口では説明できません”とか“これは、殆ど偶然に近い出来事です”と言ってもよいはずなんだが...。あの専門家は何も知らないなどと言われるのがこわいからかもしれない。
 以前、血液型性格判断に関して、同じような意見を書いたことがある[長谷川芳典 (1994). 目分量統計の心理と血液型人間「学」.詫摩武俊・佐藤達哉(編) 現代のエスプリ324 『血液型と性格 その史的展開と現在の問題点』,pp. 121-129. ]。原文をそのまま引用すると、自分で書いた文章とは言っても著作権侵害になる恐れがあるので、ここでは、原文を大阪弁に変換して引用することにしたい。
 わいたちは、何ぞの比率に違いが見られるとすぐに説明を求めたがるちうわけや。表一のような数値を見ると、単に「偏りがある」と錯覚するだけでなく、その「偏り」の原因を性急に見つけようとしてしまうわ。こうした「答え欲しがり屋」の欲求を満たすべくまことしやかな「説明」を用意しとることも血液型人間「学」の根強い人気の一因になっとるように思うわ。
 少々話題が外れるが、新入社員(毎年15人採用)の中で「ラーメン」より「ざるそば」の好きな人が5年前の5人から今年は10人に増えたちう例を考えてみようわ。この事実に対して「成人病を意識して脂っこいものを避ける人が増えてきたためだ」と説明すればああそうかと思う人もいるやろうわ。せやけどダンさん例あげたろか。たとえばやなあ、その会社が長野県に支社を開設したために長野県出身で信州そばの好きな人が大量に入社した可能性もあるちうわけや。会社の近くにおいしいそば屋が開店してそば好きが増えたせいかもしれへん。さらに、複数の原因の相互作用によって生じた可能性もあれば、原因となる要素があまりにも多すぎたり複雑に絡んでいるために「偶然による違い」としか説明でけへんような場合だってあるちうわけや。「成人病を意識して脂っこいものを避ける人が増えてきたためだ」ちうのは、ホンマは「説明」ではなくて単なる事後解釈やこじつけの一つにすぎないちうわけや。それは「答え欲しがり屋」を安心させる反面、他の原因を探ろうとする頭の働きを止めてしまうわ。
 そもそも現実の世界では一つや二つの原因だけで違いが生まれることはめったにないちうわけや。まことしやかな事後解釈に惑わされることなく、わかりまへんことはわかりまへんと言える勇気をもって、いろいろな原因を地道に分析していこうではおまへんか。
 “わかりまへんことはわかりまへんちう勇気”を持てば、人間の行動を安易に説明したがる傾向は減るだろう。そうなれば、血液型性格判断などに頼る必要もなくなってくる、と思うわけだが、わかってもらえまへんかいなあ。
【上記の大阪弁の文章作成にあたっては、ホームページ大阪弁化計画を利用した。新いろいろ日記さん、情報をどうもありがとう。なお、私は東京で18年、そのあと京都で15年暮らしたが、大阪弁のことはよくわからない。上記の文章でも、文の途中部分にぎこちなさが目立つが、どう変えたらよいかは分からない。大阪人の方ごめんなさい。野球は間違いなく、阪神とオリックスのファンなんだけれどなあ。】
<補足>上の文章は8日の夜に書いたものであったが、9日の朝日新聞で河合隼雄氏が、まことに適切な指摘をしておられた。詳細はスクラップブックの7/9記事に引用したが、上記に関係のありそうな部分だけを抜き書きしておく。
今回のような事件が起こると、それの癒しを考えるよりは、早く忘れたり、否定したりしたがる人が多い。そのような方法で一番手っとり早いのは、事件の「原因」を単純に決めつけ、それによって何か話が解決したように思うというのがある。「家族」「学校」あるいは、特定の人々を「原因」と考え、それを攻撃し、自分は攻撃する側に回って安心する。これはごく一般に行われ、確かに、何か話が「わかった」と思えるし、自分に責任がないことは明らかになるし、それもよかろうと言えるが、癒しという観点からは、まったく別のことで、それによって傷を深くする人を増やすだけだ、という認識はもたねばならない。



970708(火)
[心理]血液型と性格をまじめに考える(11)A型はスイカをキッチリ食べるか、スイカをキッチリ食べるのがA型か?

このシリーズを始めるきっかけとなったTV番組のホームページがあることを教えてもらいました。こちらから直行できます。番組そのもののHPのURLはこちらです。


 きょうは、6月下旬で中断していた血液型性格判断の話題に戻ろうと思う。血液型性格判断では、しばしば、「XX型はYYという特徴がある」と言う。これが仮に正しかったとして、「あの人は、YYという特徴があるからXX型だ」というような“血液型あてっこ”は、どの程度確実にできるものなのだろうか。
 この問題は、ベイズの公式により計算することができる。初めに、統計学の入門書から代表的な問題を引用しよう。
 ある臨床検査は、病人に対しては98%の確率で陽性反応を示すが、正常人に対しても5%の確率で陽性を示す。別個の情報として、この病気になる確率は1%であるという。
 さて、病院を訪れた1人に、この検査を実施したところ陽性反応が出た。この人が真にこの病気に罹っている確率はどのくらいか?(佐和隆光『初等統計解析』新曜社、1974年を長谷川が要約)。
 この問題では、病人の場合は98%の確率で陽性になるということから、陽性反応が出ると98%、少な目に見積もっても70-80%の確率で自分はその病気にかかっているのではないかと落ち込んでしまう。しかし、“病人が陽性になる確率”と“陽性になったものが病人である確率”は全く異なるのだ。ベイズの公式に従って計算してみると、分子は0.98×0.01=0.0098、分母は0.98×0.01+0.05×(1-0.01)=0.0593となり、0.1653という値が導かれる。つまり、真に病気である確率は、思ったほど高率ではない、ここでは16.5%程度であるということがわかる。
 それでは、タイトルのスイカの問題を同じように考えてみよう。先日のテレビの番組では、A型の幼稚園児だけが、きっちりと、赤いところを残さずにスイカを食べたと紹介されていた。ここから、次のような問題を作ってみる。

 A型者の60%はスイカをキッチリ食べる。それ以外の血液型の者では、キッチリ食べる比率は40%にすぎない。A型者の比率は日本人全体の40%であることがわかっている。さて、ある人が、スイカをキッチリ食べた。この人の血液型がA型である確率はどのくらいか?
 同じように確率を計算してみると、分子は0.6×0.4=0.24、分母は、0.6×0.4+0.4×(1-0.4)=0.48、よって、この人がA型である確率は0.24/0.48=0.5、つまり50%であるということになる。もともと、何の情報がなくても「あなたはA型でしょう?」と言って当たる確率は40%あるから、精度が四分六から半々に上がった程度。仮に血液型性格判断が正しいとしても、80%や90%の精度で、行動の特徴から血液型を「あてっこ」するのは難しいことがわかる。
 これがAB型を当てるとなるともっと難しい。先日のテレビの番組の表には、AB型は“二面的”であると書かれている。仮にAB型で二面的な人の確率を80%、それ以外の血液型で二面的な人を20%としておこう。日本人のAB型の比率は10%として計算する。
 すると、分子は0.8×0.1=0.08、分母は、0.8×0.1+0.2×0.9=0.26となり、二面的な人がAB型である確率は0.08/0.26=0.31となる。これでは“あなたはAB型でしょう”と言っても7割は外れてしまう。

 “血液型あてっこ”は当てにならないという理由をまとめると次のようになる。(もちろん、これは血液型性格判断が正しいという前提に立ってもこうなるという意味であって、血液型性格判断そのものを認めるかどうかは別の議論である。)
 最後に、条件付確率を大きめに見積もるという錯覚は、血液型ばかりで起こるものではないことを指摘しておきたい。
例えば、傷害行為で補導される生徒の80%が暴力シーンを含むビデオを見ていたとする。補導経験のない生徒も20%は暴力的ビデオを見ていることがわかっている。この地域で、生徒が補導される比率は0.1%であった。暴力シーンを含むビデオを見ている生徒が、補導される確率はどのくらいか?【ここに挙げた数値は、すべて仮想のもので、現実を反映したものではない】
 これも同じように解くと、分子は0.8×0.001=0.0008、分母は0.8×0.001+0.2×0.999= 0.20 よって、暴力シーンを含むビデオを見ている生徒が傷害行為を起こす確率は、0.0039、つまり0.4%にも満たない。
 “ある犯罪者が**を好む”ということが報じられると、すぐ、“**を好むと犯罪を犯す”というように主張したがる人がいるが、そういう人はたぶんベイズの定理を理解していない。持論を正当化するために、都合のよい出来事を利用しているだけである。
<補足>上記の確率計算は、ちゃんと検算したものではありません。もし、計算ミスがありましたら、長谷川までお知らせいただければ訂正します。
2005年7月17日追記]
読者の方から、上記の仮想の事例では「傷害行為で補導される確率」と「傷害行為を起こす確率」の区別が曖昧であるとの御指摘を受けました。「補導される確率」は、その地域の取り締まり方針によっても大きく変わりますので確率計算の事例としては好ましくなかったと考えます。傷害行為のほうも、確率事象としては独立性に問題があるように思います。ということでこの仮想事例は参考になさらないようにお願いします。



970707(月)
[生活]七夕は、なぜ7月7日なのか


 七夕のお話というのはどういうものだったろうか。どうも記憶が定かでない。7月7日というのは、どういう意味があるのだろう。子どもの絵本を引っぱり出してみると、
織姫さんと牽牛さんは、仲良くなってから自分の仕事を忘れて毎日毎日遊んでばかり。星の王様に「楽しく遊ぶのはいいけれど、仕事をすませて遊びなさい」と言われたのに「お仕事なんてつまらない。」と反抗したので、離ればなれにさせられた。そのあと一生懸命働くようになったので、一年に一度だけ会うことが許された。
というようなことが書かれてあった(小学館『ママお話きかせて 夏の巻』を要約)。
 旺文社の学習図鑑『宇宙』によると、これは中国のお話で、織女は天帝の孫娘、牽牛はウシ飼いの若者ということなので、身分の違いがあったのかもしれない。

 中国では古くから、織女星は養蚕や意図・針の仕事をつかさどる星、牽牛は農事を知る基準の星になっていた。日本では、はじめは奈良時代に宮中や貴族などが星祭りとして行い、のちに江戸時代からは武家の風習として、しだいに一般化するようになった。7月6日の夜になると、いもの葉にたまった露で墨をすり、五色の短冊に願い事を書いてササにつるす。7日には、そのササと一緒に供えた野菜や果物を川や海に流し、天の川に届けば願い事がかなえられると伝えられている。
というような解説があった。いずれにせよ、これでは、単身赴任の家庭で「ママ、ママとパパも遊んでばかりいたから、離ればなれにさせられたの?」などと言われかねない。伝説や童話のストーリーには何かしら背景があるはずなのだが、資料がないのでわからない。どなたか、詳しく調べてくれないかなあ。
 次に、なぜ七夕が7月7日か、ということだが、これについてはどこにも理由が書かれていなかった。ただ、天文年鑑を眺めながら考えてみると、旧暦で7月頃の天の川は、夜9時頃にはちょうど北から真南に向かって流れている。7日と言えば、上限の月の一歩手前。この時期に半月と天の川が重なるわけではないが、半月が18時頃にはちょうど真南に見えるているので、川を渡る船を連想させる。ちょっとコジツケかもしれないが、半月が見えるということが7日ということと大きく関係しているのではないか、というのが私の説だ。歳差を考慮すると、ひょっとして古代には、天の川と半月が重なっていた時もあったのでは、と考えたくなるが、こちらは全く根拠がない。
 いずれにせよ、半月が大きな意味をもつとするなら、旧暦の7月7日でないと、伝統的な雰囲気が味わえないことになる。
 七夕の短冊に私が書く言葉は毎年決まっている。「計画、実行、総括の繰り返し」。「何でもキッチリ、テキパキと」、「早寝早起き、規則的な生活」....、こういうことばかり書くので、家族からは評判が悪い。


970706(日)<16:35補足>
私は、“日記界”の内部の対立には口を出したくないけれど、いま行われているアンケートに不正投票があったとは驚きだ。それを行ったと推測される方の日記を拝見したが、
ワシが一見"不正"に見えることをしているのは、すべて、彼らへの抵抗なのです。
という問題のすり替えがあるだけで、弁解も謝罪も見あたらない。日記猿人には、たくさんの参加者がいる。その全体の問題を話し合い、意見を集約している神聖な場所を、抵抗の手段に使うとは何事だ。

970706(日)
[日記]日記を書くこと読むこと(8)読んだよボタンとランキングのことなど
 昨日から“日記界”にちょっとした異変がおきていてびっくりした。ひとつは、オランダ駐在日記さんが、とつぜん執筆をうち切られたことだ。
 “書くこと”というタイトルをつけておられたので、ひょっとして私の日記に反応してもらったのかなあと思って、開けてみてビックリ。しかし、どう深読みしても、私のちっぽけな日記の内容が、影響を与えたとは思えない。先月、かやすがさんが“読んだよボタン”を外したこともそうだったが、“日記界”には、私のような新入りにはよくわからないことが多い。
 もうひとつ、最近まいにち読ませてもらっているこちらの方が、とつぜん、“BOWNUS”を開始されたのにもビックリした。じつは、この方の日記の一昨日(7/4)の得票数は1票であったが、昨日(7/5)は6票を獲得されておられる。やはり、こういう日記を書かないと、都議選は戦えないのかなあ(何のこっちゃ)。

 さて、投票の話題が出たところで、きょうは日記猿人アンケートに関連する話題をとりあげたいと思う。といっても、このアンケートには掲示板も設置されているようなので、個々の問題については、時間をみつけて書き込ませていただくこととし、ここでは、自分自身にとって“得票”がどういう意味をもつのか、簡単にふれることにしたい。
 私の場合、得票と言っても5票から10票ぐらいしか頂けないので、そもそもランキングの順位を気にする域には達していない。ただ、1票でも入れていただけると、たいへん励みになることは確かだ。それは、読者の方が、まったく自発的にこの日記にアクセスし、一定の時間をさいて、この駄文に目をとおしてくれたからである。
 アンケートの中に、“ボタンを押せる回数”についての設問があるが、私には、2回以上の投票を認めるメリットがわからない。“共感を伝える手段として、ボタンを押せる回数を増やしたらどうだろう”という提案の趣旨はわかるけれども、特に感動したり印象の残った日記があれば自分の日記に引用してもよいし、こういうふうに公開してもよいのではないかと思う。
 私の場合、得票数よりも、何人の方に読んでもらっているのか、同じ人が何回ぐらい読んでもらっているのかということが気にかかる。1度しかボタンを押してくれない方が多いとすれば、読者を持続的にひきつける力がないのかなあ、と反省してみたりする。そういうこともあるので、押せる回数を増やすというのは私にはちょっと困る。それと、投票ボタンのレスポンスが遅いということは、きむあつさんもどこかに書いておられた。投票方式が多様になることで、ますます遅くなるというのは、やはり困る。
 ランキングの種類を増やすことは、いけがわさんやせんべいさんの御負担にならなければ面白いと思うけれど、とにかく、軽いリストを作ってもらいたいということを希望したい(昨日の日記の“アクセス時間”を参照してほしい)。
 ランキングの意味については、個々人が自分なりに解釈し、自分なりに利用すればよいと思う。ランキング上「位」にあるということは、意味づけはどうあれ、たくさんの人が読んでいる可能性が高いわけで、私としても、時間さえ許せば読んでみたくなる。ただ、上「位」なら必ず読むというわけでもない。何度かアクセスするうちに、自分に合った日記が見つかってくれば、順位が“読むこと”に影響を与える可能性は低くなってくるだろう。

 掲示板の中で、“一人当たりの日記登録数 = 一人によって為し得る新作リストへの「ダメージ」”という御意見があった。なるほど、こういうことまでは気づかなかった。さっそく、私が書いている3つのうちの1つを自動更新から外したいと思う。

970705(土)
[日記]日記を書くこと読むこと(7)アクセス時間あれこれ
 日記猿人のアンケートが行われているそうだが、私自身はまだ回答していない(そういえば、お年玉つき年賀状の景品の交換もまだだったなあ)。明日のこのページで、私なりの意見をまとめてから日曜日にでも回答しようと思っている。
 これに関連して、かやすがさんが、日記猿人の新作200は、全部表示せずに途中でストップボタンを押すというような話をしておられた(7/1)。これは私も同じで、土日の早朝ならともかく、平日の昼休みや夜など、200全部を見ることは不可能に近い。私の日記猿人関連発言では、平日の昼休みに収集したデータもあるが、あれはたいへんな時間を要した。食事に出る前に読み込みを始めたが、戻ってきてもまだ完了していないこともあった。全部のデータがとれたのはラッキーなほうで、たいがいは、途中で強制切断されてしまう。
 アクセス・読み込みに時間がかかるのは、日記猿人ばかりではない。いろいろなWeb日記の中にも、ひどく時間を要するものがある。下の表は、先月の得票数Top5の日記や日記猿人関連ページの表示に、どのくらいの時間がかかったか調べたものである。
 なお上の表でいうアクセス・読み込み時間とは、リンク行をクリックしてから、画面の表示が完了するまでの時間のことをいう。“デーテーペーな1日”は日記猿人に登録されていないので(why?)、直接リンクは避けた。

アクセス・読み込みに要する時間比較

(1997年7月4日19:30-20:45頃)
日記orサイト名30秒以内60秒以内3分未満3分以上
5分未満
備考
日記
オランダ駐在日記××_日記Topページまで
とほほ日記 ××××5分経過しても完了せず
MADE IN JAPAN! アメリカ駐在日記___平日昼休みは3分以上
思うこと×××ReadMe読み込みはできず
コンピュータ室運営日誌××__
喜遊楽的生活___たいがい10秒以内
英国見聞録××××フレーム画面までは30秒程度で済むが、第211話までインデックスを表示するのには3分以上。各話の表示に30秒以上。
デーテーペーな1日(参考)××_バックナンバーは5分経過しても完了せず
日記猿人関連
新作Top200××××5分経過時点で最新39まで
本日の得票××_1分40秒
先月の得票××××5分経過時点で118「位」まで表示
日記一覧100×××_
日記一覧全部××××5分経過時点でNo.593-783を表示


 ここに示した時間は、1回限りの測定なのでかなり変動があると思われるが、速い遅いの傾向は基本的に変わらないと思う。このほか、私のところでは、読んだよボタンを押しても、受け付けてもらえる前に、時間切れ強制切断されてしまうケースが結構多い。
 日記猿人は、いけがわさんやせんべいさんの善意によって運営されているものだから、遅い遅いなどと苦情を言える筋合いのものではない。それと、アクセス・読み込み時間は、こちら側のネット環境にも大きく左右されているので、なかなか改善は難しいと思うが、何かの参考にしていただければ幸いだ。

970704(金)
[日記]日記を書くこと読むこと(6)他の日記を批判すること、反論すること
 このシリーズは、月末のまとめとして3-4日の予定で始めたものであったが、予定より長引いてしまった。いちおう、きょうを入れてあと3回で完結し、7月の終わり頃に、ふたたび月末のまとめを組みたいと考えている。
 きょうは、他の日記の内容を批判すること、あるいは、その批判に対して反論することについて、じぶんの考えを述べてみたいと思う。
 初めに、日記を書くことと論文を書くことはどう違うのか、考えてみたい。日記と論文が違うことぐらい、わかっている。しかし、これを比較してみると、Web日記の特質が浮かび上がってくるように思う。

 上に述べた論争は、活発に行われるほどよい。じっさい、科学は、論争とその弁証法的解消を繰り返すことによって、発展をとげてきたといっても過言ではないだろう。

 これに対して、日記はどうだろうか。論文と違って、自分の考えを書くにあたって、他の人の日記の内容を検索する必要など全くない。たまたま同じことを言っても盗用などと言うひとはいないだろう。むしろ、“同じことを考える人がいるものだなあ”と共感をおぼえるはずである。
 論文では、筆者が自分の嫌いな人であっても、多少文章が難解であっても、とにかく自分の主張と関連がある限りは、それを読む義務がある。しかし、日記の場合は、読みたいものだけを読めばよいのだ。また、読む、読まないの基準も、個々人の自由な判断に委ねられている。それゆえ、自分が普段読まない日記に、何か自分に対する批判が書かれてあったとしても、わざわざそれを読む必要はない。もちろん反論に時間を費やす必要もない。気の向いたときだけ反論してもよいし、無視してもよい。もちろん、批判者に同意することもありうるが。

 ところで、ヒトは一日にいくつぐらいの日記を読めるだろうか? 私の場合、生活時間のサイクルから言って、毎日10編ぐらいが限度ではないかと思う。ここで、たぶん同意してもらえるのではないかと思うが、100人の日記を1日10編ずつ10日間かけて読むよりは、10人の同じ人の日記を毎日読み続けることのほうが、はるかに親しみを感じるものである。それは、同じ人の日記を読み続けると、なんとなく同じ屋根の下で暮らしているような共感を覚えるようになり、もはや“見ず知らずの他人の日記”ではなくなるからであろう。
 6月22日に述べたように、私は6月中旬頃の時点で1ヶ月以内に219の日記を最低1度以上拝見させてもらった。しかし、この数は、月を重ねるごとにだんだん減っていくのではないかと予想している。というのは、毎日読む日記が固定されてくると、わざわざ新しく登録した人の日記までは目を通さなくなるからである。

 毎日読む日記が固定されてくるといっても、新しい日記を読みたいという欲求は常にある。どちらを取るかはヤジロベエのように微妙に揺れ動く。だから、比較的読む頻度の多い日記であっても、ちょっとしたきっかけで、急に読まなくなり、新しい日記に取って代わるということもありうる。
例えば私がAさんの日記を愛読していたとする。ところが、ある日Aさんが、日記を書くのを突然止めてしまった。私は当然ショックを受ける。この時Bさんが、半分冗談に“Aさんが日記を止めてセイセイした。”などと書いたとしたらどうなるだろう。私はおそらく、それ以後、Bさんの日記は読むまいと決めるだろう。
上にも述べたように、論文であるならば、筆者が自分の嫌いな人であっても、多少文章が難解であっても、とにかく自分の主張と関連がある限りは、それを読む義務がある。しかし、どの日記を読むか読まないかは、レストランの選択と同じようなもので、ほんのちょっとしたきっかけで訪れる機会が増えたり、とつぜん訪れなくなったりしても、何ら構わない。そういう気楽な世界こそが、この“日記界”なのではないかと思う。

970703(木)
[日記]日記を書くこと読むこと(5)“事実”と“思い”の分離

 スクラップブックを書き続けることで何か変わった点はないか、と考えていくと、“事実思いの分離”という物の見方につきあたる。
 “事実思いの分離”というのは、どんなに腹の立つ出来事や悲しい出来事があったとしても、“事実として起こったこと”と、そのことへの“思い”を分離するという物の見方である。これが完全にできる人は、決して腹を立てることがないし、悲しい出来事があってもくよくよせず、その時点から未来に向かって、できることだけを考えていくことができる。
 念のため言っておくが、事実思いを分離させるということは無感動になることではない。たとえば、戦争で残虐な場面を何度も体験した人は、死体を見ても何も感じなくなるだろう。これは、事実思いを分離しているのではなく、思いを無くしてしまっただけのことである。事実思いを分離できる人は、人が死ねば思い切り泣く。しかし、その人が生き返らないという事実を事実として受け止めた後では、もっぱら、そこから先のことだけに目を向ける。そしてその一方で、楽しい時には思い切り楽しむ。
 スクラップブックを書き続けていると、世の中には悲しいことや腹の立つことがいっぱいあることに気づく。しかし、それを書きとめ、自分なりのコメントを書き加えていく中で、“思い”が分離されていく。腹の立つことでも、とりあえず事実は事実として受け止め、その先に、可能なことを考えていく習慣が身についてきたように思う。
 もちろん私も人間だ。時には腹も立てるし、くよくよと昔のことを後悔することだってある。私は、今度の神戸の事件が初めて報道された日は、一日中、仕事が手に着かなかった。中3生徒が逮捕された夜も、いろいろ思いをめぐらして寝付けなかった。しかし、スクラップブックの見出しはあえて、“小6殺害・遺体切断事件”で通してきた。残虐な表現であるかもしれない。しかし、今度の事件は、単なる“小6殺害”事件ではない。“遺体切断”という行為があったからこそ、あれほど問題にされたのだ。これはショッキングな事実である。しかし、事実から目をそらしてはいけない。まず事実をしっかり受け止めることが、明日への思いにつながるのだ。とりあえず、そういう物の見方ができるようになってきた点が、スクラップブックを書き続けてきたことの1つの成果ではなかったか、と思っている。
 ところで、この“事実思いの分離”というアイデアは、私のオリジナルの発案ではない。たしか、ある団体(宗教団体ではない)が、これと同じ、もしくはよく似た言葉をスローガンにかかげていた。『病気と病身の分離』というアイデアも同じである。
 もっとも、同じようなアイデアは、“認知療法”という心理療法の中でも活かされているようだ。困っていることがあった時、この療法では、どういう場面でその問題が起こったのかを調べる。そして、その場面での思考が、感情や行動にどういう影響を及ぼしているかを考える。その上で、同じ場面で別の思考ができないかどうか調べ実行してみる、というのがこの療法のポイントらしい。
 日常生活で腹の立った出来事や悲しい出来事をWeb日記に書きつらねるということは、実はたいへん意味のあることだと思う。日記猿人参加者の中には、カイシャで起こった嫌なこと、対人的なトラブルで悲しかった体験を記している人がいる。端から見れば、ずいぶんツマラナイ日記を書いているように見えるし、なぜ公開するのか疑問に思う読者もおられるかもしれない。でも、作者本人にとっては、それが、事実思いを分離させる、とっても重要なプロセスであるかもしれないのだ。日記読み日記を書く場合には、そういうことにも配慮する必要があるかと思う。


970702(水)
[日記]日記を書くこと読むこと(4)書く原因(その2)
 一昨日に戻って、日記を書く原因について考えてみたい。ここで“日記を書く理由”ではなくて“日記を書く原因”と書いたのは、私の立場を反映したためである。
日記を書き始める時には何らかの理由があったに違いない。しかし、理由が何であれ、また本人が自覚しているかどうかにかかわらず、日記を書き続けている限りは、そこには何らかの結果が随伴しているはずである。それが原因なのだ(行動の結果が行動の原因になると考えることこそ行動分析学のユニークな視点である)。

 日記を書くことに伴う結果は、書くことに内在する(ビルトインされた)結果と、外部から付加された結果に分けられる。
 前者は、書くことに付随して生じる自分自身の変化である。例えば、生活の規則性、文章表現の上達、相手を思いやる表現の上達、もやもやとしたアイデアの整理...、といった個人内部での変化かこれにあたる。私の場合、自慢ではないが、もともと生活はきわめて規則的なので、日記執筆によって新たな変化は生じていないように思う。むしろ、寝る時刻が遅くなるとか、朝のラジオの英会話入門が始まってもまだ入力を続けている、というように不規則になった可能性すらある。文章表現の上達は、残念ながら現時点では確認できない。いずれ、第三者による評定、句読点の頻度(文や文節の長さ)の機械チェックなどを通じて確認してみたいと思っている。
 書くことに付随して生じる変化は、家の中での私の行動にもあらわれているようだ。私は家ではもともと文句が多い。部屋が散らかっていれば片づけろと言うし、冷蔵庫の中に期限切れのものを発見すると、冷蔵庫内をもっと管理しろと言う。このほか、布団カバーの管理、お皿の管理、洗濯物の管理など、文句の種はつきない。ところが日記を書き始めるようになってからは、しゃべる機会が大幅に減ったので、とうぜん文句も出なくなった。これは妻にとっては大歓迎らしい。
もっとも、このシリーズの第1回目(6/28)でも述べたように、文句も出ない代わりに、家族が話しかけてもいい加減な返事でごまかすことが多くなった。総合的にみて、よい変化なのか悪い変化なのか、今の時点では何とも言えない。

 日記を書くことに伴うもう1つの結果は、外部から付加された結果である。“読んだよボタン”の得票結果や、読者からのメイル、アクセス数、などがこれに当たる。私の場合、現時点ではまだ、この影響を特定することができない。得票結果やランキング表示が影響を与えるかどうかを検証するためには、一定期間、ランキングから離脱するとか、ランキング表示を一切見ないという実験をしてみる必要があるだろう。これによって、日記の内容や量が変化すれば、何らかの形で影響を受けていたことが確認できる。このあともういちどランキングに復帰したり、ランキング表示を毎日見るというステップに入る。ここでまた、日記の内容や量の変化をチェックすれば、自分がどういう影響を受けているか科学的に把握できるはずである。もっとも、今のところ、そういう自己実験をする余裕がない。
 1月末から始めた“スクラップブック”の執筆に関しては、上に述べたこと以外に、“事実と思いの分離”という物の見方の形成、“不満のはけ口”という効果があるように思うが、これについては次回に考えてみることにしたい。

970701(火)
[日記]日記を書くこと読むこと(3)6月に印象に残った日記
【以下の本文中のリンクは、いずれも事前の了承をいただいておりません。もし不都合がありましたら、直ちに該当個所を削除しますので、ご容赦ください】
 本来ならば昨日の続きを書くべきところであるが、6月が終わったことでもあるので、きょうは、6月中に拝見した日記のなかで特に印象に残った日記を振り返ってみたいと思う。
 まず、いちばん印象に残った日記として、この方の『6/19アムラーのスタイルで何が悪いんや』をあげたいと思う。これは、前日に書かれた別の方の『プロパガンダに踊らされる哀れな女子高生』という日記への反論として書かれたものであった。しかし、批判を受けたほうの執筆者は、翌日に、あっさりと「失言であった」と反省されてしまった。御自分で「失言」と認定された日記の内容についてここで細かくご紹介するのは失礼かと思うので、ここではあえてリンクしない。
 このあまり目立たなかった「論争」が印象に残った理由は、次のとおりである。じつは私は、『プロパガンダに踊らされる哀れな女子高生』を拝見したとき、全くその通りだと思った。そこに描かれた女子高生たちは、自分たちでは自由にふるまっているように感じているだろうが、実際には、仕組まれた付加的強化子(好子コウシ)に踊らされているのである。私は、その時、何の疑問も感じなかった。そして、半日ほどたって、上記の『6/19アムラーのスタイルで何が悪いんや』が発表された。これには、目から鱗が落ちるような気がした。
 女子高生たちは、確かに付加的好子(コウシ)に踊らされているに違いないが、だからといって、彼女たちの価値観をオッサンが否定し、高所からオヤジ論をぶちまける権利はないのだ。じっさい、オッサンにしたって、別の仕組まれた付加的好子に踊らされているかもしれないのである。ゴルフだって、日記だって、盆栽いじりだって、多かれ少なかれ、誰かが用意した付加的好子によって強化されている。多様な価値観を認めるためには、アムラーのスタイルも、オッサンの盆栽も同じ高さにたって尊重しあわなければならないのだ。
余談だが、小6殺害事件の容疑者が逮捕された直後、民放の番組の中で、須磨警察署前から記者がリポートしている場面が映し出されたが、背後には若者が押し合いへし合い詰めかけていて、ニコニコしながらポーズをとったり、携帯電話で(たぶんいまテレビに映っているぞと)交信したり...上に述べたように、多様な価値観を同じ高さに立って認め合う態度は必要だと思うが、私にも感情はある。警察署前からの中継がどれだけ意味をもつのかは知らないが、私がもしその場に居合わせたら、大声で怒鳴りつけていただろう。

 日記作者の中で、特に偉大だと思ったのは、この方だ。この方の『カイシャの部下の女の子』についての一連の話を拝見すると、この作者の部下を思いやる心がひしひしと伝わってくる。いま日本ではカウンセラーの養成が叫ばれているが、大学で理屈っぽい授業ばかりやっても優秀なカウンセラーは育たない。もし大学の学生懇話室でカウンセラーを募集することがあったら、私は真っ先にこの方をお呼びしたいと思っている(たぶん来てくれないでしょうが)。
 上にのべた方とは、ちょっと(だいぶ?)雰囲気が異なるが、この方がお勤めのカイシャは、本当に愉快だ。仕事にくたびれたときには、この方の日記を読むと疲れがとれる。
 くたびれた時に読んで楽しい日記といえば、ほかに、この方の日記が楽しい。ボタンを外されたのはショックだったが、ほぼ毎日拝見している。こちらの方の日記も、14年前の自分が想い出されて楽しい。もっとも、私の新婚時代は、そんなにアツアツではなかったように思う。
 この方を男性だと思っていたことは前にも書いた。著作権だか肖像権だか知らないが、ちゃんご画像ファイルはセーブしてあるぞ。もうお一方、この方の鈴虫の飼育日記は、あんまり目立たないけれどほのぼのとして楽しい。
 私は、原則として、他の方の日記の内容を批判しないことにしている。誰かが私のことを批判しても、いちいち反論しない。その理由は、また別の日に述べる。しかし、日記作者の中には、こういう方だったら議論してもいいなあという方が何人かおられる。“議論してもいいなあ”という意味は、仮に意見を異にしても、相手の人格を批判したりせず、あくまでその意見の内容について、その前後の文脈を正しく理解しながら、感情を交えずに議論できるという意味である。例えば、この方が相手だったら、とことん議論できると思う。とは言っても、残念ながら、今のところ、余りにも意見が一致しすぎていて論争する話題が見つからない。特に、この方の「検閲・削除」問題に対して、別に示し合わせたわけでもないのに、同じようなリアクションを起こされたことに驚いてしまった。
 最後に、私の所からは、平日は外国サーバへのアクセス条件が悪く、今回は外国在住の方の日記をご紹介することができなかったが、この方の日々のご報告には、頭が下がる。必ず貴重な史料になるものと、確信している。
【上記のリンクに不都合がございましたら、長谷川までご連絡いただければ幸いです】