じぶん更新日記1997年7月 |
大学教授にもごく稀にそういう人がいる。知的レベルは高いが、筋道立てて自分の主張をする能力がない。とうぜん批判されても反論できない。裏で「陰謀だ」などどわめき、しばらくすると懲りもせずに、また持論を展開する。周囲の人間からは、もはや相手にされない。嘲笑され、適当にあしらわれるのみである。こういう人生は送りたくないものだ。
そういうこともあって、大学院以後はよく、長野県の学生村というところに行ったものだ。冬にスキー客相手の民宿をやるような農家が、夏休みに、当時の値段で1泊3食つきで3000円前後で、受験生・大学生・大学院生・司法試験受験生などを受け入れてくれた。勉学が目的の宿泊だから、最低でも1週間以上、個室、勉強机つきが原則となっていた。段ボールに本や雑誌論文のコピーなどをたくさん詰めて宅配便で送り、早朝に2時間、午前中3時間、午後3時間ほど勉強し、夕方は近くの山道を散策する。
私が大学院時代に利用した学生村は、白馬、柿其(南木曾)、乗鞍、志賀高原、浅間山麓、松原湖の6ヶ所であったように記憶している。そう言えば、かわいい女の子が同宿(もちろん別の部屋)したこともあったが、みんな結婚してしまったなあ。Web日記を書いている人はいないだろうなあ。
残念ながら、この「信州学生村」、年を追うごとに受け入れ町村が減少し、衰退していった。今ではどうなっているのだろうか。今でもサークルの合宿は受け入れているだろうが、下宿(というか、学生マンションというか)にもクーラーが普及した現在、インターネットから隔離された信州の山奥で1ヶ月ちかく勉学に励む学生がどれだけいるか、疑問である。大学受験生のほうも、じぶん独りで勉強するよりは、予備校の講習に通ったほうが安心するのだろう。
※上記の比較は、すべて、都道府県所在都市のみの比較で、おおむね1961年から1990年までの平均値に基いている。
台風9号が接近していて、岡山では朝から雨まじりの強風。(きょうはスクラップブック風の話題で恐縮だが、)世界で初めてのクローン羊「ドリー」をつくった英国の研究陣が、新たにヒト遺伝子を組み込んだクローン羊「ポリー」を誕生させたと、24日の英紙が報じた。この羊はヒトの蛋白質を含んだ乳を出すことができる。この技術を使えば、特定の蛋白質を作れない患者の治療に役立てることができる。研究グループは羊の細胞から核を取り出し、ヒトの遺伝子を導入。これを核を抜いた羊の胚細胞に入れ、羊のおなかの中で成長、出産させた。ロンドン発ロイター電によると、生まれたクローン羊はポリーを含み5頭であった。
クローン羊誕生のニュース以後、速報性と論評の質という点で、群を抜いていたのは英国の『エコノミスト』と『ネイチャー』であった。これらの二誌は、仮にクローン人間が誕生しても、それは年齢の違う一卵性双生児が生まれること以上でも以下でもないこと、などを論じている。世界的にみると、過度の研究規制や感情的な反科学を避けたい科学界、これまでの実績をもとに法的問題は微調整ですませたい行政当局、一般世論を背景にできれば包括的な法の網をかけたい政治家という三すくみ状態が生まれつつある。なお、クローン羊で一躍有名になったロスリン研究所は、乳の中に医薬物質を産出するよう遺伝子組み替え技術によって改変された羊(トランスジェニック動物)を、クローンによって殖やすという、明確な研究戦略をもっていた。
大学周辺の本屋で、私自身がこれを買うのはちょっと恥ずかしい。恥ずかしいというよりも、本屋やコンビニには、教え子がうようよしているので、「ハセピーは女性週刊誌を読む趣味がある」などという変な噂を立てられる恐れがある(だから、エッチな本の立ち読みもできない)。その弱みを知っている妻は「あなた自分ではゼッタイ買えないでしょう。もし、買ってきたら、三遍廻ってワンをしてあげるわ」などとからかう。しかし、さすがは思いやりのある妻だ。ちゃんと買ってきてくれた。
“現状では日本のカウンセラーの大半が、来談者の自主性にまかせて、本人の話に根気よく耳を傾けるという方法をとっています。これは精神分析の考え方から出発したカール・ロジャースという心理学者の技法で、この方法は本人が苦しんでいて立ち直る意欲がある場合は効果的ですが、本人が自分の問題性を自覚していない場合は、そもそも治療に入れず、その間に事故が起きてしまうことが稀ではありません。”...“米国では今日、行動科学の考え方に立って、本人の行動を矯正していく方法のほうが盛んになっています。”さらに平成7年から始まったスクールカウンセラーの制度について、小田教授は次のように指摘している。
“このスクールカウンセラーの多くは、ロジャーズ方式なのです。つまり、向こうから来るのを待っている。しかも、カウンセラーの多くは、心のケアが大切だという大前提のもとに、犯罪心理学や精神医学を学びたがらない。”....“自主性の尊重という名の放任は、危険きわまりないことです。”..最後に『女性自身』は、次に、カウンセラーには国家的な資格はいっさいない、ということを正しく指摘している。「明日からでもなれるという意味では、宗教団体の教祖と同じです」、これもまた小田教授の発言。
いま全国で活躍している臨床心理士(協会認定資格)、カウンセラー(一切資格なし)の方々の仕事ぶりを批判するのではなく、そういう人たちの本来の仕事が何であり、何ができないのかを明確にしておく必要がある。スクールカウンセラーを派遣すれば学校内の問題行動がすべて解消されるなどと考えたら大間違いだ。と主張しておきたい。
二人のけちな酒飲みがいる。形の違うコップが2つだけあり、そのいっぽうに酒がつがれている、この一杯を、2人で分けて飲もうということになったが、両方から絶対に文句の出ないように酒を分けるにはどうすればよいか。元の問題には何も書かれていないが、この問題を解くには次のような暗黙の了解がある。
まず、1人が、自分をどっちをとっても文句がないと思うまで、じっくりと酒を2つに分ける。つぎに、もう1人が、その2つのうち、自分のほしいと思うほうを1つ選ぶ。そして残ったほうを、はじめの男がとれば、両方から文句の出るはずがない。これをもとに私が考えた問題は次の2つである(但し2番目のほうは、自分でも完全な正解を出していない)。
- 2人のケチなお百姓が畑を2つに分けることになった。上記と同じやり方で分ければ、絶対に文句が出ないと言えるだろか。
- n人(n≧3)がn個のコップを使って酒を分ける場合にも、絶対に文句が出ないような方法はあるだろうか。
このクイズの正解として、私が想定していたのは、次のような帽子問題において、王子の1人が“自分は金色の帽子をかぶっている”と断言できるためには、どのような心理学的前提が必要か?
ある国には3人の王子がいました。あるとき、王様が“ここに金色の帽子が3つ、銀色の帽子が2つある。このうちのどれかを、お前たちにかぶせよう。自分の帽子の色を見ることはできないが、他の2人の帽子の色を見ることはできる。自分にかぶせられた帽子の色が最初にわかった者に王位を譲ることにしよう。”と言った。
王様は、3人の王子にいずれも金色の帽子をかぶせた。すると、しばらくして、1人の王子が自分の帽子は金色であると言った。
※このクイズの元になった問題は、心理学の入門書などによく引用されています。しかし、ここでは、単に、“王子はどうやって自分の帽子の色がわかったか?”ということではなくて、その前提となる心理学的前提を明記していただきたい、というものです。
3人の王子とも、という2点であった。ここでは2番目の仮定が特に重要である。つまり、自分の帽子が銀色だと仮定した上で、他の2人の反応をさぐる。この仮定(仮定1)のもとで、他の2人はそれぞれ独自に自分の帽子が銀色であると仮定する(仮定2)と、3番目の王子は、銀の帽子が2個しかないという知識から、直ちに自分の帽子は金色であると判断するはずである。この判断が出てこないということは、仮定2が間違っていたからに他ならない。この時点で仮定1だけが正しいとするならば、他の2人は、「自分の帽子は金色である(仮定2の否定)」と判断できるはずである。ちょっと待ってもこの判断ができないということは仮定1が間違っていることにほかならない。よって、自分の帽子は金色であるという結論が導き出せる。
- 銀色が2つ、金色1つという状況ではないことが直ちに把握できる推理力をもっていること。
- 銀色1つ、金色2つというケースの場合、金色をかぶせられた者が誰であっても、一定時間以内に、自分の帽子が銀色ではないということを判断できる推理力をもっていること。
もっとも、大きい画像があることは、読み込みに負担をかけることには必ずしもならないようだ。私のところからだと、「わかば日記」、「杉田かおる日記」、「難破阿呆船」などは、画像があっても比較的速く読み込める。いっぽう「デーテーペー」、「よろずや談義」などは、殆ど文字ばかりなのになかなか読み込めない。
リンク集といっても制作する側のコンテンツの1つですので、リンクした側が責任をもってその後を確認するというのが本来の姿勢だと思います。と指摘されているが、まことに的を射た指摘である。もっとも、私自身、リンク集を作っても半年以上、いちどもアクセスしていないというところがある。今回、HP一周年を前に、少しずつ点検し、あまりアクセスしなかった所は、バッサリ削除していこうと思う。
【きのうの出来事】
19日は、近くの運動公園で「おかやまの祭り・祭祭(サイサイ)」というのをやっていた。去年までは確か「サマー・カーニバル」と呼ばれていたものである。祭りといっても、祇園祭のように鉾や山車が出るわけではない。長崎のおくんちとか精霊船のような伝統も全くない。約70の出店と、人工降雪によるソリ遊びコーナー、お祭りステージなどがあるだけだが、なぜか、ものすごい人混みになる。
私と息子の主要な関心事は、毎年安く売り出されるスーパーファミコンの中古カセットである。今年も、それだけを目当てに行って来た。数年前は、1本1000円、3本2000円ぐらいで売られていたが、昨今のプレステ人気でスーファミ市場が暴落したせいか、今年は1本500円、3本1000円、新品のドンキーコング3が1000円で売られていた。さっそく、併せて3000円、7本分を買う。これで、我が家のスーファミ・カセットは合計56本に達した。もし新品を定価で買ったとしたら1本5000円としても28万円もの財産になる。じっさいは殆ど中古で買っているので1本平均1500円程度だと思うが、それでも合計すれば相当の出費だ。
【昨日の出来事】
朝から快晴。梅雨前線が南下して大陸からの移動性高気圧に覆われたためということだが、どうやら、梅雨前線はこのまま消滅するらしい。変則的ながら、これで梅雨明けだろう。このさい、勝手に梅雨明け宣言を出しておこう。この「梅雨明け」が分かっているのか、午後には、実験室前の草地に無数のトンボが飛んでいた。アブラゼミやクマゼミも勢いよく鳴いていた。
【付記:気象台の梅雨明け宣言は7/19に出されたようだ。今年の梅雨は、私が記憶している限りでは、一度もオホーツク海の高気圧が現れなかった。そのため、東北太平洋側での冷害は今のところない。6月の東京の猛暑も、このせいだろう。しかし、どうも太平洋高気圧の弱さが気になる。8月中旬以降に、季節外れのオホーツク海高気圧など現れないか、ちょっと気がかりだ。】
誰でもいちど、大人になる前に、「おもちゃ箱列車」が自分の前から遠ざかり、それに乗っている自分のおもちゃ達がバイバイと手を振っている夢を見るものだ、と聞いたことがある。とってもロマンチックで悲しい話だが、私自身はそういう夢を見たかどうか、定かではない。
ある時、貨物列車が家の中を走っている夢を見た。その貨物列車には、昔遊んだおもちゃがいっぱい積まれていた。よく見ると、運転士は、死んだお父さんだった。ああ、懐かしい!と思って着いていくと、その列車は庭のほうに出ていって突然消えた。煙のニオイがするなあと思って目が覚めると、庭先でおばあちゃんが、私が昔遊んだおもちゃを燃やしていた。【7/19若干修正】
自閉症の男性と両親の姿を実名で描いた本「誠吾君、街を駆ける」が出版され、地域の中に理解の芽が生まれている。主人公の誠吾さん(24)は一時、他人の家に入って小銭を取ってしまう行動があり、両親は「ひもで縛っておけ」との声も浴びていた。著者である支援施設の指導員は「親子が地域で暮らし続けるには、近くの住民に症状への理解を深めてもらうしか手がなかった」と話す。
.....
十代後半になると、他人の家や店に入り、無断でトイレを使う行動も始まった。暴力はふるわないが、驚いて警察に通報する人々もいた。
謝っても、一部の住民や店員からは「施設に入れとけ」「なぜ普通の場所にこんな人間を住まわせてるんだ」などの言葉が浴びせられた。
圭子さん【長谷川注:誠吾さんの母親】を最も苦しめたのは、缶コーヒーへのこだわりだった。二十歳を超えたころから、なぜか一日に何本も買うようになり、そのために店や他人の家で小銭(220円、660円など)を取るようになってしまった。<悪いことをしている>との意識は見られなかった。小遣いを増やしたり、店の前に同学園の職員とともに監視に立ったりしたが、完全には止められなかった。
警察に通報され、関係者に「縛ってでも店に来ないようにしてくれ」と言われた。
万策尽きて、96年初めには、生活施設に入所させることにした。だが誠吾さんは家に帰りたがり、脱走した。
幸い最近は、自転車を無断便用する回数が減った。乗っても元の場所に戻す。缶コーヒーヘのこだわりも減り、小遣いの範囲で大体収まつている。「成長しているようです」と華子さんはいう。
ここまで書いてきたが、じつは、私は、そういう子供たちやご家族の生活のほんの一端しか知らない。たぶん、そういうご家族がこれをお読みになったら、「長谷川さんなんて、ちょっと首を突っ込んだだけじゃないか。本当の苦労が分かってたまるか」と言われるかもしれない。
ある集団の中でたびたび問題を起こす人がいたとする。Aさんは、その人にペナルティを課すことを要求したり、釈明や謝罪を求めたとする。いっぽうBさんは、「あの人は何を言っても謝罪する人ではない。ほうっておけ」と主張したとする。この場合、どちらが「急進派」で、どちらが「穏健派」と言えるだろうか。一般的には、釈明や謝罪を求めるというのは非常に強硬で排他的な印象を与える。しかし、釈明を求めるということは、該当者がちゃんと議論ができる人物だと認めた上で成り立つ行為であって、相手が一人前の人間であることを認めている証明でもある。つまり、相手と同じ高さから、繰り返しラブコールを送っているとも言える。いっぽう、「ほうっておけ」と主張することは、いっけん寛容なようで、じつは、
あの人は、じぶんの主張を筋道たてて展開したり、まともに議論に参加することができない人間だ。と断定しているようにも受け取れる。
この生徒は、自室で「最終(ファイナル)ラウンド 開始(スタート)」とノートに書いた直後に両親を殺害した。死を見届けてから、自分の手首を切り、冷蔵庫の扉に「目標達成おめでとう」と血で書いた。当時は、「貧しい生活」をもたらした両親への怒りが暴発した事件だとみられていたが、自室から見つかった日記に殺害計画や動機が詳細に綴られていた。それは、細かい字で約20ページに及ぶ。凶器に使ったサバイバルナイフのことを「伝説の武器入手」と記し、ほかに「防具」「クリア」「設定」...といったテレビゲームの用語が並ぶ。この生徒の場合、特に「ドラクエ」が好きだった、と精神鑑定で話した。
もっとも、私自身、親として成功しているかどうかはわからない。5年ほどまえ、息子を子どもだけのキャンプに送り込んだことがある。迎えに行って最初に発したのは、「ねえ、お父さん。オクトマンモスとスカルミリョーネとどっちが強いと思う?」という言葉だった【これはドラクエではなくファイナルファンタジー4の話。おっと、私がファミコンで遊んでいたことがバレてしまいそう】。ただし、最近は、宿題が山ほど出ることもあって、TVゲームをやる暇はあまりないようだ。
たまごっちを手にしたことがないので、これはあくまで推測にすぎないが、このおもちゃは、たぶん、上記の「好子出現(提示)の随伴性」を最大限に保証しつつ、「好子消失(除去)阻止の随伴性」を最低限に抑えたために流行している(らしい)のではないかと考えている(本物のペットと違って糞掃除は不要。万が一死んでも、リセットすればまた育てられる)。
サラリーマンの仕事も、たぶん同じようなことが起こりうる。最初は、自分の適性を考え好きな仕事を選んだ人であっても、時には、仕事がつまらない、のんびり休暇をとりたい、と考えることがあるだろう。しかし、今、仕事をやめると給料がもらえなくなり、家族は路頭に迷うことになるので、やむを得ず働き続ける。こうなると、その人にとって、仕事をすることは、給料という好子提示の随伴性によって維持されているのではなくて、“仕事をやめれば給料を失う”という、好子除去阻止の随伴性によって維持されるようになるのだ。
上田完さんが「日記猿人」を去ることを決めた。井筒屋主人さんも、colonさんも、最後通牒を突きつけ、上田さんの後を追う気配も濃厚である。YESさんも、YHoriuchiさんも、かな。あっ、岡山大の長谷川さんも、か(「原状回復を要求します!」と主張し続け、スタア様によって「日記猿人」を追放された静岡大の長谷川さんは、3月から元気に〈でもないか〉復職している。「日記猿人」はもうコリゴリだそうだ。久々に事件経過特設日記をリンクしとくか)。むむ? なんで「長谷川さんも、か」になるのか? それらしきことを言った覚えはないし、だいいち、日記猿人をよりよいものにと思って、アンケート関連の議論に参加している者が、なんで去らねばならないのだろうか? たぶん、静岡大の長谷川さんという方とのイメージのダブりがあるのかもしれない。このさい、やっぱり、“長谷川芳典”の本名をやめて、“ハセピー”に変更しようかなあ。
この物語は、ペロニックというみなしごの少年が、ロージャーという魔法使いが住むカーグラスの城に潜入して、“黄金の水入れ”と“ダイヤモンドの槍”を手に入れる冒険談である。お城にたどり着くまでには、まず、わざわいの森と通り抜け、次に妖精のコリガンが守るリンゴの木からリンゴをもぎ取り、マムシのたてがみをもつライオンの所から“笑う花”をつみとらなければならない。さらに、竜たちの住む湖や、黒人が番をする谷、よろこびの谷などを通り抜けなければならない。ペロニックは、それらすべてを奇策を駆使して乗り越え、ロージャーを殺して、見事に宝物を手に入れるのであった。この話には、どこにもロージャーという魔法使いの悪行は書かれていない。したがって、ペロニックがやったことは、住居侵入・強盗殺人以外の何物でもないのだ。桃太郎とはエライ違いだ。ペロニックの知恵と奇策に面白さがあればあこそ、いまなお子供に読みつがれているのだろう。
- 『ママお話聞かせて』(小学館)では、豆の木を登ったところで仙女が現れて「あなたがこれから、おかあさんの言うことをよく聞く、いい子になるとお約束するなら、いいことを教えてあげますよ」と言う。ジャックがそう約束すると、この先にお父さんの宝物を盗んだ大男がいると教えられるというストーリーになっていた。
- 永岡書店の『名作アニメ絵本シリーズ30・ジャックと豆の木』では、事前にお父さんの宝物であるという情報はないが、大男が人食い鬼になっている。また、盗んできた竪琴を見に来たお姫様がジャックのことを好きになり結婚してメデタシメデタシという結末になっている。
- 神田の古本屋で買った『My storybook dictionary』(Grolier International)でも、ジャックが初めて豆の木を登ったところでおばあさんが現れる。おばあさんは、人食い鬼がお父さんを殺してお金を奪い去ったことを教える。また、最後に人食い鬼が落下死してからは、お母さんと一緒に幸せに暮らし、“When Jack grew up he fell in love with a beautiful princes and married her."という結末に終わっている。お姫様と結婚したのは永岡書店のオリジナルではなさそうだ。
わいたちは、何ぞの比率に違いが見られるとすぐに説明を求めたがるちうわけや。表一のような数値を見ると、単に「偏りがある」と錯覚するだけでなく、その「偏り」の原因を性急に見つけようとしてしまうわ。こうした「答え欲しがり屋」の欲求を満たすべくまことしやかな「説明」を用意しとることも血液型人間「学」の根強い人気の一因になっとるように思うわ。“わかりまへんことはわかりまへんちう勇気”を持てば、人間の行動を安易に説明したがる傾向は減るだろう。そうなれば、血液型性格判断などに頼る必要もなくなってくる、と思うわけだが、わかってもらえまへんかいなあ。
少々話題が外れるが、新入社員(毎年15人採用)の中で「ラーメン」より「ざるそば」の好きな人が5年前の5人から今年は10人に増えたちう例を考えてみようわ。この事実に対して「成人病を意識して脂っこいものを避ける人が増えてきたためだ」と説明すればああそうかと思う人もいるやろうわ。せやけどダンさん例あげたろか。たとえばやなあ、その会社が長野県に支社を開設したために長野県出身で信州そばの好きな人が大量に入社した可能性もあるちうわけや。会社の近くにおいしいそば屋が開店してそば好きが増えたせいかもしれへん。さらに、複数の原因の相互作用によって生じた可能性もあれば、原因となる要素があまりにも多すぎたり複雑に絡んでいるために「偶然による違い」としか説明でけへんような場合だってあるちうわけや。「成人病を意識して脂っこいものを避ける人が増えてきたためだ」ちうのは、ホンマは「説明」ではなくて単なる事後解釈やこじつけの一つにすぎないちうわけや。それは「答え欲しがり屋」を安心させる反面、他の原因を探ろうとする頭の働きを止めてしまうわ。
そもそも現実の世界では一つや二つの原因だけで違いが生まれることはめったにないちうわけや。まことしやかな事後解釈に惑わされることなく、わかりまへんことはわかりまへんと言える勇気をもって、いろいろな原因を地道に分析していこうではおまへんか。
今回のような事件が起こると、それの癒しを考えるよりは、早く忘れたり、否定したりしたがる人が多い。そのような方法で一番手っとり早いのは、事件の「原因」を単純に決めつけ、それによって何か話が解決したように思うというのがある。「家族」「学校」あるいは、特定の人々を「原因」と考え、それを攻撃し、自分は攻撃する側に回って安心する。これはごく一般に行われ、確かに、何か話が「わかった」と思えるし、自分に責任がないことは明らかになるし、それもよかろうと言えるが、癒しという観点からは、まったく別のことで、それによって傷を深くする人を増やすだけだ、という認識はもたねばならない。
ある臨床検査は、病人に対しては98%の確率で陽性反応を示すが、正常人に対しても5%の確率で陽性を示す。別個の情報として、この病気になる確率は1%であるという。この問題では、病人の場合は98%の確率で陽性になるということから、陽性反応が出ると98%、少な目に見積もっても70-80%の確率で自分はその病気にかかっているのではないかと落ち込んでしまう。しかし、“病人が陽性になる確率”と“陽性になったものが病人である確率”は全く異なるのだ。ベイズの公式に従って計算してみると、分子は0.98×0.01=0.0098、分母は0.98×0.01+0.05×(1-0.01)=0.0593となり、0.1653という値が導かれる。つまり、真に病気である確率は、思ったほど高率ではない、ここでは16.5%程度であるということがわかる。
さて、病院を訪れた1人に、この検査を実施したところ陽性反応が出た。この人が真にこの病気に罹っている確率はどのくらいか?(佐和隆光『初等統計解析』新曜社、1974年を長谷川が要約)。
同じように確率を計算してみると、分子は0.6×0.4=0.24、分母は、0.6×0.4+0.4×(1-0.4)=0.48、よって、この人がA型である確率は0.24/0.48=0.5、つまり50%であるということになる。もともと、何の情報がなくても「あなたはA型でしょう?」と言って当たる確率は40%あるから、精度が四分六から半々に上がった程度。仮に血液型性格判断が正しいとしても、80%や90%の精度で、行動の特徴から血液型を「あてっこ」するのは難しいことがわかる。
A型者の60%はスイカをキッチリ食べる。それ以外の血液型の者では、キッチリ食べる比率は40%にすぎない。A型者の比率は日本人全体の40%であることがわかっている。さて、ある人が、スイカをキッチリ食べた。この人の血液型がA型である確率はどのくらいか?
例えば、傷害行為で補導される生徒の80%が暴力シーンを含むビデオを見ていたとする。補導経験のない生徒も20%は暴力的ビデオを見ていることがわかっている。この地域で、生徒が補導される比率は0.1%であった。暴力シーンを含むビデオを見ている生徒が、補導される確率はどのくらいか?【ここに挙げた数値は、すべて仮想のもので、現実を反映したものではない】これも同じように解くと、分子は0.8×0.001=0.0008、分母は0.8×0.001+0.2×0.999= 0.20 よって、暴力シーンを含むビデオを見ている生徒が傷害行為を起こす確率は、0.0039、つまり0.4%にも満たない。
織姫さんと牽牛さんは、仲良くなってから自分の仕事を忘れて毎日毎日遊んでばかり。星の王様に「楽しく遊ぶのはいいけれど、仕事をすませて遊びなさい」と言われたのに「お仕事なんてつまらない。」と反抗したので、離ればなれにさせられた。そのあと一生懸命働くようになったので、一年に一度だけ会うことが許された。というようなことが書かれてあった(小学館『ママお話きかせて 夏の巻』を要約)。
というような解説があった。いずれにせよ、これでは、単身赴任の家庭で「ママ、ママとパパも遊んでばかりいたから、離ればなれにさせられたの?」などと言われかねない。伝説や童話のストーリーには何かしら背景があるはずなのだが、資料がないのでわからない。どなたか、詳しく調べてくれないかなあ。
中国では古くから、織女星は養蚕や意図・針の仕事をつかさどる星、牽牛は農事を知る基準の星になっていた。日本では、はじめは奈良時代に宮中や貴族などが星祭りとして行い、のちに江戸時代からは武家の風習として、しだいに一般化するようになった。7月6日の夜になると、いもの葉にたまった露で墨をすり、五色の短冊に願い事を書いてササにつるす。7日には、そのササと一緒に供えた野菜や果物を川や海に流し、天の川に届けば願い事がかなえられると伝えられている。
ワシが一見"不正"に見えることをしているのは、すべて、彼らへの抵抗なのです。という問題のすり替えがあるだけで、弁解も謝罪も見あたらない。日記猿人には、たくさんの参加者がいる。その全体の問題を話し合い、意見を集約している神聖な場所を、抵抗の手段に使うとは何事だ。
日記orサイト名 | 30秒以内 | 60秒以内 | 3分未満 | 3分以上 5分未満 | 備考 |
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- 論文を書く場合に、まずしなければならないことは、過去に類似のテーマで書かれた論文がないかどうか、徹底的に検索をすることだ。これを怠って、過去の論文と同じ主張をしてしまうと、盗用の疑いをかけられる。
- 次に、論文を発表して、しばらくすると、それに対する批判が寄せられる。同じレベルの学術誌に批判記事が掲載された場合、原著者は必ずこれを読み、適切な反論をくわえなければならない。ずっと沈黙を続けると、批判内容を受け入れたものと見なされてしまう。
- こうして、原著者と批判者は、第三者を巻き込んで論争を続ける。それはおそらく、どちらかの一方的勝利に終わるか、あるいは対立点を発展的に解消する第三の理論が生み出されるまで続く。
ところで、ヒトは一日にいくつぐらいの日記を読めるだろうか? 私の場合、生活時間のサイクルから言って、毎日10編ぐらいが限度ではないかと思う。ここで、たぶん同意してもらえるのではないかと思うが、100人の日記を1日10編ずつ10日間かけて読むよりは、10人の同じ人の日記を毎日読み続けることのほうが、はるかに親しみを感じるものである。それは、同じ人の日記を読み続けると、なんとなく同じ屋根の下で暮らしているような共感を覚えるようになり、もはや“見ず知らずの他人の日記”ではなくなるからであろう。
6月22日に述べたように、私は6月中旬頃の時点で1ヶ月以内に219の日記を最低1度以上拝見させてもらった。しかし、この数は、月を重ねるごとにだんだん減っていくのではないかと予想している。というのは、毎日読む日記が固定されてくると、わざわざ新しく登録した人の日記までは目を通さなくなるからである。
例えば私がAさんの日記を愛読していたとする。ところが、ある日Aさんが、日記を書くのを突然止めてしまった。私は当然ショックを受ける。この時Bさんが、半分冗談に“Aさんが日記を止めてセイセイした。”などと書いたとしたらどうなるだろう。私はおそらく、それ以後、Bさんの日記は読むまいと決めるだろう。上にも述べたように、論文であるならば、筆者が自分の嫌いな人であっても、多少文章が難解であっても、とにかく自分の主張と関連がある限りは、それを読む義務がある。しかし、どの日記を読むか読まないかは、レストランの選択と同じようなもので、ほんのちょっとしたきっかけで訪れる機会が増えたり、とつぜん訪れなくなったりしても、何ら構わない。そういう気楽な世界こそが、この“日記界”なのではないかと思う。
日常生活で腹の立った出来事や悲しい出来事をWeb日記に書きつらねるということは、実はたいへん意味のあることだと思う。日記猿人参加者の中には、カイシャで起こった嫌なこと、対人的なトラブルで悲しかった体験を記している人がいる。端から見れば、ずいぶんツマラナイ日記を書いているように見えるし、なぜ公開するのか疑問に思う読者もおられるかもしれない。でも、作者本人にとっては、それが、事実と思いを分離させる、とっても重要なプロセスであるかもしれないのだ。日記読み日記を書く場合には、そういうことにも配慮する必要があるかと思う。
日記を書き始める時には何らかの理由があったに違いない。しかし、理由が何であれ、また本人が自覚しているかどうかにかかわらず、日記を書き続けている限りは、そこには何らかの結果が随伴しているはずである。それが原因なのだ(行動の結果が行動の原因になると考えることこそ行動分析学のユニークな視点である)。
もっとも、このシリーズの第1回目(6/28)でも述べたように、文句も出ない代わりに、家族が話しかけてもいい加減な返事でごまかすことが多くなった。総合的にみて、よい変化なのか悪い変化なのか、今の時点では何とも言えない。
余談だが、小6殺害事件の容疑者が逮捕された直後、民放の番組の中で、須磨警察署前から記者がリポートしている場面が映し出されたが、背後には若者が押し合いへし合い詰めかけていて、ニコニコしながらポーズをとったり、携帯電話で(たぶんいまテレビに映っているぞと)交信したり...上に述べたように、多様な価値観を同じ高さに立って認め合う態度は必要だと思うが、私にも感情はある。警察署前からの中継がどれだけ意味をもつのかは知らないが、私がもしその場に居合わせたら、大声で怒鳴りつけていただろう。