6月25日(木)
【思ったこと】 980625(木)[教育]小・中学校で学ぶべきこと・教えるべきこと(3)国語(その2)読解力と作文力
昨日の日記の続き。昨日もお断りしたように、ここに書く内容のなかには、根拠に乏しい思いつき程度の発想も含まれているし、他の方の御意見を拝聴したうえで修正することもありうる。いわばたたき台の提示のようなものであるという前提で読んでいただきたいと思う。それゆえ、多少極端な発言が多くなる点、ご容赦いただきたい。
さて、きょうは現代文の読解と作文について意見を述べたいと思うが、その基本は、
- 相手の説明を正確に把握し、自分の行動に活かせるようになること。
- 相手の主張内容と根拠を正確に把握でき、もし問題点がある場合、それを的確に指摘できること。
- 自分の知識や経験を分かりやすく簡潔に伝えられること。
- 自分の主張を筋道をたてて論じられること。
といったことにあるかと思う。要するにコミュニケーションがちゃんとできる力を養うという意味である。これは簡単なようで結構むずかしいことだ。どこぞの世界でも、文章力は抜群なのに、自分の主張を筋道たてて論じることを苦手としている人がいるようだ。まあ、いろいろと個性があるのは結構だが、とにかくコミュニケーションがちゃんと出来ないのでは本人自身も辛かろうと思う。
さて、いま主張したことは、教育課程審議会の「審議のまとめ」とも基本的に一致しているように思われる。
自分の考えを持ち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力などの育成を重視する。説明や話し合い・討論をすること、記録や報告をまとめることなどの言語活動例を示す。
私自身が疑問に感じるのはむしろ文芸作品の読解・解釈にかかわる教育である。昔から私自身が苦労した国語の問題に
- 作者の気持ちを○○字程度で述べなさい。
- 作者はどんな人ですか。
- この詩の感動の中心は何ですか。
などといった設問があった。私自身が苦手だったから当てつけで言うわけではないけれど、作者の気持ちとか感動の中心なんていうものは読み手が自由に想像すればよいことだ。絶対的な正解などあろうはずがない。
では、文芸作品の標準的な解釈を教えないと、相手と論争はできるが相手の気持ちをくみ取ることのできない人間になってしまうのだろうか。否である。そもそも相手の気持ちをくみ取るというのは、対人接触の機会を増やして、生身の人間のぶつかり合いの中で自然に身につけていくべきものである。国語の読解で高い点数をとれる英才であるほど相手の気持ちを理解できる人というわけではないだろう。
文学作品の解釈は多種多様であるべきだ。作者自身の意図は1つしか無いとしても、作品として公にされてしまって多くの人々にインパクトを与えてしまった時点では、作者自身の意図が唯一の正しい解釈になるとは言えない。特定の解釈の正解点を与えるのではなくて、むしろ「こんな解釈もできるよ」といろんなユニークな解釈を評価するような教育が行われるべきであると思う。
子供の頃、トッパンの絵本「イソップ物語」(川端康成監修)を読んだ時、各話の最後に付け加えられている「教訓」にしばしば疑問をもったものである。いずれ機会を改めて実例をあげたいと思う。太宰治の『お伽草紙』に出てくる『カチカチ山』とか『浦島さん』の解釈などもとってもユニークで興味深いものだ。
最後に、もういちど元に戻って、論説文について一言。高校や大学の入試で論説文の主張内容を問うような問題が出題されることがあるが、そもそも、そういうことが試験問題に出題されるような論文というのは、わかりにくい論文であって、いくら格調高く難解な用語が多用されていたとしても、しょせん駄文・拙文にすぎない。いまの時代、そんな駄文・拙文まで時間をかけて読む暇はない。論文を書くということは基本的に相手に何かを訴えるために書くものであるから、相手が分かりやすいように相手本位で書くべきものだ。いくら真実味があっても、難解であるがゆえに試験問題に採用されるような文章は誰も読まなければよい。みんなに無視されれば、書き手もいくらか段落構成とか文章表現に配慮するようになるであろう。....と書いてみたところで、この日記はどうなのか?などと言われると困ってしまうけれど。
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【ちょっと思ったこと】
- 数日前に某有名日記作者がWeb日記の執筆に一区切りをつけられたが、その方のボードでの発言を拝見すると、Web日記を毎日更新することが負担になっている日記作者が結構多いのではないかとふと思った。
恒星の進化に例えるならば、ふつうWeb日記は、書き始めて読者から反応していただけるようになると、質・量ともにしだいに増殖を続ける。これは一般の恒星が核融合によって次第に肥大化し赤色巨星となるプロセスによく似ている。恒星の場合は、その後2通りの運命をたどると言われている。1つは大爆発を起こしてガスやチリとして消え去ってしまう場合、もう1つは爆発せずに自らの重みで収縮して白色矮星となる場合だ。アナロジカルな思考にすぎないけれど、この日記もいずれ2通りいずれかの道をたどることになるだろう。私としては、後者の白色矮星化の道を辿りたいと願っているが。
余談だが、さらにアナロジカルな思考を続けるならば、日記界にも宇宙と同様のブラックホールのようなところがあるのかもしれない。いったんこういう所にアクセスすると二度と逃れられなくなるというもの。
- 参院選挙が25日に告示されたが、従来に比べると変梃な名前の新党、小規模政党の数が減っているように思った。何年前だったか、税金、福祉、環境、教育などを党名に掲げて、単一政策だけで得票を得ようとした政党が乱立したことがあった。しかし、政策というのはしょせん総合的に実現されるものであって、かりに単一政策党が1人や2人当選したところでけっきょくは何も実現できず大政党に吸収されていくだけの運命をたどる。「オオカミが来た」少年ではないが、国民もそういう新党乱立ブームに愛想をつかしてしまったところがあるかもしれない。
- 6/26朝日新聞によると、25日、東京都と福岡で3人の死刑囚に刑が執行されたという。66歳の東京の死刑囚の場合は1983年に殺人を犯し91年に死刑確定。54歳の福岡の死刑囚は78年に殺人を犯し90年に死刑確定。福岡のもう一人の66歳の死刑囚は、80年に殺人を犯し90年に死刑が確定したと報じられている。これらに共通して思うのは、殺人行為から刑の確定まで8〜12年、死刑の確定から執行まで7〜8年という時間が経過していることである。死刑判決を出すような事件では、時間をかけて慎重に裁判が行われるのは必要であるとしても、そんなに長引かせれば当事者の記憶も薄れてしまうし、被害者遺族への癒しにもならない。もっと迅速な審理はできないものだろうか。ちなみに私は死刑廃止論には原則賛成であるけれども、オウム真理教による事件、女子高校生を長期間監禁したうえで殺害してコンクリート詰めにした事件(主犯は無期刑確定)、連続幼女殺害事件、最近の奈良県での女子中学生殺害事件など凶悪な犯罪がおこっている現実においては、社会的な鬱憤を晴らす端的な手段としての死刑を廃止するのは時期尚早であろうとの立場をとらざるをない。
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
- 大阪で25日、平年より一週間早くクマゼミの鳴き声を確認(6/26NHK朝5時台のニュース)
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