じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 花売り場で見かけた黒い蝶。よく見かけるカラスアゲハとは模様が違うようだと思いとりあえずシャッターを押す。あとで調べたら、どうやらナガサキアゲハのメスであるようだ。学研の『オルビス学習科学図鑑』には九州産、奄美大島産、有尾型の写真が載っていたが、その中では九州産に近かった。


10月10日(日)

【思ったこと】
991010(日)[心理]メンタルフレンド

 10/11朝7時半からNHKでメンタルフレンドの話題をとりあげていた。昨日からの連載の予定を変更して、記憶が薄れないうちに思ったことを記しておきたい。

 ここでいうメンタルフレンドというのは、正式な資格を持たない学生が不登校などに悩む家庭を訪問したり、小学校に派遣されたりして子どもたちの相手をするという制度。平成3年度から試行されているという。

 今回紹介されたのは、岐阜県各務原市にある東海女子大。指導にあたっておられるのは私と同姓の長谷川博一氏だった。番組の前半では、ある女子大生が3人の娘さんをかかえる母子家庭(母親は事故で下半身に障害。離婚)を一年半、45回にわたって訪問した様子を紹介していた。当初は頑なに心を閉ざし妹に当たり散らしていた長女が、12回目あたりから次第に態度が変わり、半年後の23回目あたりからはメンタルフレンドである女子大生に何でもうち明けるようになった。長谷川博一氏の指針は、子どもたちの行動について良いとか悪いといった評価をせず、子どもたちのありのままの姿を受け入れるということ。登場した女子大生は「話すよりも一緒に何かをする」ことの大切さも指摘しておられた。

 後半では市内の同じ研究室の複数の女子大生が小学校に派遣され「通学はするが教室で授業を受けられない」児童たちと一緒にゲームなどして遊んでいるところが紹介されていた。

 こうした取り組みについては、教育委員会の中にも成果を疑問視する声があるとか。番組でも「一つの可能性を示している」と結論づけているだけで、どちらかというと中立的な立場を貫いていたようにも見えた。

 長谷川博一氏が指導して居られるような「ありのままの姿を受け入れる」という姿勢は、「外界への能動的な働きかけとしての行動を常に具体的にとらえ、望ましい行動を強化し、望ましくない行動は弱化するための具体的プランを練る」という行動分析視点から言えば、はなはだ心もとない気がしないでもない。ただ、どんなすぐれた行動改善プログラムであっても、初対面の時からいきなり一方的に導入されたのでは、当人はたまったものではない。押しつけ、強制と受け止めるのは当然のことである。もともと行動分析的視点というのは、当人がどういう行動を自発しているのかを見極めた上で、そのうちの望ましい部分に如何に好子を随伴させるかを当人と一緒に見つけだしていくことにある。ありのままの姿を受け入れるという姿勢は、過剰な否定反応や攻撃反応を消去し、真に必要な反応を自発させやすくするという点で行動分析的に見ても必要な段階であるとは言えるし、そもそも言語的強化とか言ったって、見ず知らずの人から褒められることが機能的に好子提示になるなどということは考えられないから、習得性好子形成を豊富にするためにも、良好な人間関係を作るということは前提条件として不可欠なものになるだろう。

 「ありのままの姿を受け入れる」と言っている人達も、結局は、自分の気づかないところで、当人の望ましい行動に何らかの言語的承認を与えるようになるのではと推測せざるを得ない。思想的、理念的に「ありのままの姿を受け入れる」ことを絶対化するのではなく、事後の介入効果を高めるためのステップとして捉えた上で、「受け入れる」ことにどういう有効性があるのか、もっと実証的に検討されるべきではないかと思った。

 メンタルフレンドを導入した小学校の教員が言っておられたが、クラス全体がうまく機能しなくなった時には、どうしても一対一の対応が必要になる。とはいえ教官一人が特定の児童だけに関われる時間的余裕は無い。メンタルフレンドの対応の内容がどうあれ、個別的な状況を把握し、当人が自発する行動の多様性を広げるためのサポートをする人達はやはり必要。メンタルフレンド制度が有効かどうかというような二者択一の議論ではなく、それを導入することを前提とした上で、そこでも改善できない部分があるとすればそれは何か、そのためにはさらに何を付け加えたらよいのかという形で建設的に議論が進むことに期待したい。
【ちょっと思ったこと】
  • インド哲学、仏教研究の権威の中村元(はじめ)氏が、10/10午前に86歳で逝去されたという。中村氏の御研究については何も分からないが、10/11朝日新聞によれば、“専門分化した大学の「縄張り主義」を痛烈に批判し、「学問を人々のために役立てたい。いかに生きるべきか、に悩んでいる人の指針、導きとなるような学問でありたい」”という姿勢を貫いておられた点は大いに学ぶべきかと思う。

  • 10/11朝6時半からのNHKのホリデー・インタビュー番組に元プロテニス選手だった伊達公子さんが登場。引退について「このまま続けていたらテニスを嫌いになってしまっていたかも」と言っておられた。現在は小さな子供たちを相手にテニス教室のようなものを開催。これもプロ養成のための英才教育ではなくて楽しさを教えることにあるのだという。これに限らず、伊達さんのお話の中には「楽しむ」という言葉がたくさん出てきた。「もともと遊びの延長上でテニスを始めた」、「遊び感覚で」、「楽しむことがいかに大切かを感じた」などなど。一口で言えば、テニスのプレイに伴う行動内在的好子が伊達さんの求めていたものと言えるだろう。ところがプロとなり国際舞台でプレイをするようになると、優勝、周囲の注目、地位の維持といった付加的好子によって制御されてしまう。プロとして活躍されていた時にどういうご苦労があったのか、どういう悩みに苦しまれたのかは知る由もないが、あえてディスクトップ上から第三者的にコメントさせていただくならば、伊達さんの引退は「付加的な好子出現の随伴性」と「好子消失阻止の随伴性」から脱却し、「行動内在的な好子出現の随伴性」を求めるものであったと考えることができるだろう。
【本日の畑仕事】
家族全員でサツマイモの一部を掘り上げる。夕食後にスウィート・ポテトに。ミニトマト、ナス収穫。イモ畑の跡を耕す。
【スクラップブック】