じぶん更新日記1999年5月6日開設Y.Hasegawa |
岡山に戻る日の朝、長寿猫に挨拶。写真は妻と娘が撫で回しているところ。右上は私が抱いているところ。 |
【思ったこと】 _00106(木)[一般]共和主義にみる『公』と『私』 1/7朝日新聞文化欄「歴史と向き合う 下:共和主義にみる『公』と『私』」(川出良枝・東京都立大助教授)は、日本人が理解しにくい共和主義の本質を分かりやすく解説している。「公私」、「自由」、さらには生きがいの問題を考える上で大いに参考になった。 川出氏はまず、共和主義が日本では、“伝統的な保守派からは象徴天皇制を否定しかねない思想として危険視され、リベラルな左派からはその「国家」中心主義的側面が嫌われるという、不幸な位置にある。”とした上で、政治理念としての共和主義が固有の原理と歴史をもつ存在であると強調しておられる。このご指摘のとおり、われわれは余りにも共和主義を知らなさすぎる。少なくとも私が習った社会科関連の授業の中では、民主主義についてはひととおり教わったのに対して、共和主義とは何ぞやについては系統的に教わった記憶が全く無い。国王や立憲君主の代わりに選挙で選んだ大統領が元首となる国の支持体制のことであろう、ぐらいにしか考えられていないところがあった。 川出氏によれば、共和主義とはラテン語のレス・ププリカに由来し「共通のものごと」という意味がある。 ...市民に「共通のものごと」の運営に積極的に参加し、公共の利益の追求に献身することを要請する思想であり....「自由」であるとは、国家権力から解放されていることではなく、自分で自分を統治できることを意味する。国家とは市民が「共通のものごと」に関与することのできる特権的な場にほかならない。という特徴をもつものであり、上記の意味での「自由」は“国家を必要悪とみなす近代自由主義の国家観とは鋭く対立する。”という。 川出氏はさらに、マイケル・サンデルの主張を紹介している。“福祉国家型リベラルは、国家の提供するサービスを受動的に消費するだけの形骸化した「市民」を多数生み出したという点で問題がある。”こと、その一方で、自由競争と自助努力の流れの中でもたらされた経済的不平等に対して、民主党政権を支えるリベラル派が相変わらず社会的公正の観点のみから解決しようとしている点を問題視し、“公共空間の再建と市民の徳の育成”から解決をめざすという点で共和主義はいま米国で再び脚光を浴びているという。 ここまで読み進むと、日本では社民党や共産党がもっぱら社会的公正を主張し、自民党の一部や自由党が共和主義に近い立場をとっているように思いこんでしまう。しかし川出氏は、米国の共和主義論者と、日本のナショナリズム再建論者(←自民党や自由党がそういう論者だと言っているのではない。念のため)が使う「祖国」、「公」、「道徳教育再建」とが似て非なるものであることを強く主張している。特に日本型ナショナリズムで常に強調されてきた「公の優先」について、“「公」のために「私」を犠牲にすることが、倫理的に価値の高いものであるとの思い込みは、共和主義とは無縁である。自由な政治参加を支えるのは、各人が国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在であるという社会条件である。国なくして個人なし、誰(何)のおかげで君たちは繁栄と安全を享受できると思っているのか、といったたぐいのレトリックは、共和主義の精神を転倒されたものである。”というご指摘には、目から鱗が落ちる思いがした。 最後の部分で、川出氏は、日本国内での議論が、公益か私益か、国家か個人かといった二分法の泥沼にはまりやすい状況にあり、結果的にそれが、滅私奉公的なイデオロギーと、徹底した私生活中心主義という対立に向かってしまいがちであることを指摘しておられる。この点は特に、労働、趣味、生きがい、多様な価値観許容などの諸問題を考えるにあたって大いに参考にすべきところだ。これを機会に私も、体制論としての共和主義とは位相を異にする共和主義の理念について学んでみたいと思う。さらに上で引用した「国家に依存しない生活基盤をもち、国家から自立した存在である」社会条件がどのような行動随伴性によって実現可能なのかについても考えていきたいと思っている。 |
【新しく知ったこと】
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【スクラップブック】
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【今日の畑仕事】
小松菜とブロッコリー収穫。鉢物に水やり。 |