じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


7月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 桔梗の花。写真には蕾、満開、萎れた花などが写っており、人生を象徴しているような光景。後ろにあるのは三尺バーベナ。




7月13日(木)

【思ったこと】
_00713(木)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(27)目標見えぬ大学教育?(その5):Web日記で鍛える?/卒論必要論を唱える私

 昨日の日記では、吉岡元子・国際基督教大学名誉教授の講演「自己表現力を育てる」を取り上げさせていただいた。吉岡先生が提唱されるアカデミック能力とは
  1. 客観的思考
  2. 批判的分析思考
  3. 主体的問題設定、問題提起にむけての思考
  4. 先行研究、関連資料の検索などを通して、問題解決にむけての思考
  5. 論理の構築にむけての思考
  6. 話しことば、書きことばによる自己表現へむけての思考
という内容を含むものであるという。これに関連して、昨日の日記の最後の部分で
  1. 「書く」ということはWeb日記執筆の中でも鍛えられるのでは?
  2. アカデミック能力として挙げられた「6つの思考」は専門教育、とりわけ卒論指導を通じて養うことができるのでは?
  3. 自分の意見をはっきり表現することは、日本型のムラ社会の中では逆に浮き上がってしまう恐れはないか
  4. キリスト教に対する批判的思考も許されるのでしょうか
という4つの感想を述べた。本日は時間の関係で最初の2つをもう少し掘り下げてみたいと思う。

 まず1番目だが、Web日記を読み、書くということは話題がなんであれ自己表現力の養成につながると思う。
  • 自分とは異なる考えを主張する日記について、感情的に反発して頭ごなしに否定するのではなく、そういう見方もあるのかと冷静に受け止めていくことは「アカデミック能力」に挙げられた「客観的思考」の第一歩になるかと思う。
  • 一般常識的な見方が広く支持されているケースで「こういう見方もあるのでは」という別の視点を提示することは「批判的思考」の養成につながるだろう。
  • 自分で日記を書くということは、その内容にもよるけれども、「論理の構築」や「自己表現へむけての思考」に結びつく可能性もある。もっとも、よほど理屈好きな人間でない限りは、そんなことばかり意識してWeb日記を長続きさせることは難しいと思うけれども.....
 ちはるさん(topはこちら)のところなど、いくつかの大学では、学生にWeb日記書きを推奨しているゼミがあるようだが、自己表現力を鍛えるという点ではどの程度の成果をあげておられるのだろうか。元ネタのICUの場合だったら、おそらく英文日記の執筆を勧めることになるのだろう。

 Web日記を長期間継続的に執筆することが私自身の自己表現力を高めたかどうかは定かではない。会議などでは、論点を整理して言いたいことだけを伝える力、異なる意見に対してその問題点を的確に指摘し筋道たてて反論する力は多少上達したように思うのだが、第三者から評価を受けてみないと何とも言えない。



 次に2番目の点だが、ICUと同じような形で「英語教育によるアカデミック能力養成」を目指すことは他の大学では非常に困難ではないかと思う。しかし、特に文系の学部にあっては、卒論研究指導をちゃんと行うことで、アカデミック能力として掲げられた「6つの思考」の養成はできるのではないかと私は考える。

 この場合の卒論研究とは、
  • 学生自らが主体的に問題を設定する。
  • 専攻分野以外からも幅広く資料を集める。
  • 専攻分野の方法で分析を進めるとともに、別の分野が同じ対象をどう扱っているのかについても紹介し、多様な視点と批判的思考に基づいて議論を展開する。
というような卒論のことを意味するものである。従来、指導教員の研究の下請けのような形で卒論指導を行う大学も多いと思うが、少なくとも文系の場合は、指導教員とはなるべく別のテーマを選ばせるような配慮があってもよいのではないかと思う。またこれを遂行するには、
  • 1年次から、各学年の指導目標を定め、主体的な問題設定や資料収集など、基礎的なアカデミック能力養成に必要なカリキュラムを充実させる。
  • 卒論の評価においては、単に専攻分野の枠内での水準に照らして評価するばかりでなく、
    • その問題をなぜ選んだのか。
    • どれだけ主体的に取り組んだか。
    • 異分野の視点をどこまで幅広く取り入れているか。
    • 学界への貢献度はゼロでもよい。成果自体ではなく、思考プロセスのほうを重視する。
    といった点も考慮する。そういった評価項目をあらかじめ学生に示すとともに、大学院入試の選考基準にも含めていく。
 2日目の全体会議の席上で私は上記視点に基づいて卒論指導重視論を披露したが、意外なことに、運営委員の先生のお一人から、卒論廃止論に基づく反論をいただいた。御発言の中身だけに限って私が聞き取った論点は、
  1. 特定の教員に卒論指導の希望が集中し、結果的に一部の学生はその希望が叶えられず「不本意指導教員」にまわされて不満が生じる。
  2. 4年次生は就職活動に振り回されて卒論研究に十分な時間をあてることができない。
  3. 提出された卒論についてきっちりした成績評価が行われない。「出せばよい」に終わってしまう。
  4. 以上のような問題がある以上、むしろ卒論を廃止して、4回生向けの半期の複数科目で30〜40枚程度の小論文を執筆させたほうが効果が上がる
というものであったと思う。しかし、これらのご反論はいずれも、卒論指導自体の欠点を指摘したものではなく、現実の指導体制や求人体制が理想的な卒論指導を妨げていることを指摘し、その現実に消極的に妥協する解決策を示しておられるだけであるように思う。

 確かに一教員あたりの学生数の多い私学ではきめ細かい卒論指導を行うには限界があることは承知しているが、御発言を拝聴した限りでは「こっちのほうが卒論よりよい」というポジティブなメリットは伝わってこなかった。

 しかし会場では私はそれ以上「卒論肯定論」の立場からの反論を試みなかった。もとより全国の大学が一律に卒論指導を義務化する必要はないし、逆に一律廃止する必要もない。結局は、どちらがより優秀な学生を輩出できるかにかかっていると思う。卒論を廃止した大学が実績をあげればそれにこしたことはないし、逆にFランク化を加速するようであれば「きめ細かい卒論指導体制」を再構築すればよい。こういうところに大学間の競争原理が現れてくるのではないかと思った。
【ちょっと思ったこと】

【今日の畑仕事】

ミニトマト、ジャガイモ、チンゲンサイを収穫。ニンジン種まき。
【スクラップブック】