じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ロベリア。ポット苗を買ってコンテナや花壇に植え付ける、ありふれた花になってしまった。花期が比較的長いうえに、背が低くこじんまりとまとまっていて寄せ植えに適しているためであろう。秋に種を蒔いて育てることもできるが、霜よけなど防寒対策が必要。10年近く前に種から育てたことがあったが、細かい苗を植え替えるのが大変で、最近では作っていない。写真は、北九州・響灘グリーンパークで5/5に撮影したもの。





5月11日(土)

【ちょっと思ったこと】

シートベルト不着用でも罰金は取られない

 午前中、自治体の生涯学習講座で講演。「シートベルトをつけなくても事故に遭遇する確率はきわめて小さい。直接体験でコントロールできないからこそ、罰金のような人工的な随伴性を付加して行動を維持する必要があるのです。」というようなことをしゃべったら、聴講生の方から「シートベルト不着用は減点になるだけで、罰金は取られません。」というツッコミをいただいた。自分自身は経験が無いので罰金を取られるものだとばかり思い込んでいたが、減点だけだったとは知らなかった。チャイルドシート義務づけも同じ罰則だっただろうか。授業でしゃべる前に調べておかなければ.....。
【思ったこと】
_20511(土)[科学]全盲の科学者と壊された貝殻のヒミツ

 夕食時に「NHK未来への教室」ヒーラット・ヴァーメイ先生の授業を視た。こちらの書評にあるように、ヴァーメイ・カリフォルニア大学教授は3歳の時に緑内障で失明するが、小学生の時先生がフロリダから採ってきた貝殻に触れ、「捕食者としてのカニとそれから身を護ろうとする貝が相互に関連しながら進化する様子とそれらの地理的分布の研究では、触覚を生かした独自の見解を出し」た。今回も、「壊れたり割れたりして死んでしまった貝を探す」なかで、貝の死因から、貝殻の形がどのように進化していったのかを解き明かすというユニークな授業が行われた。

 私たちは海辺に行くと貝殻を拾うが、それはたいがい、色が美しく、完全な形のものに限られる。そういえば、私自身、小学4〜5年の夏休みの終わり頃に、国立科学博物館の「貝の鑑定会」に標本を持っていって名前を教えてもらったことがあったが、その先生から、壊れている貝は標本にはならないから捨てましょうと言われたことがあった。確かに、標本は完全無欠でなければならないが、それだけでは、貝殻がなぜそのような形をしているのかを解き明かすことができないのである。ヴァーメイ先生の場合は、繊細な手指を活かして、貝殻のザラザラ、ツルツルといった特徴にも人一倍の関心が向けられた。このことが、晴眼者には気づかれにくい独自の着想を生むきっかけになったのだろう。

 それにしても、貝というのは面白い動物だ。植物と動物には一般には
  • 植物は、幹を太くしたり蔓を伸ばしたり葉を針に変えるというように、主として形を変えることで環境に適応し、淘汰されてきた。
  • 動物は、その名の通り、主として、行動を変えることで環境に適応し、淘汰されてきた。
という違いがある。もちろん動物の場合、行動だけが勝手に変わるということはない。皮膚の厚さや体の大きさといった形態的特徴との相互作用の中で、行動が進化していったのは当然のことである。しかし、貝の場合、貝殻の形は行動とは独立し、もっぱら身を守る鎧として進化していったようだ。それゆえ、貝を食べるカニの多い南の海では、頑丈で、(ハサミがひっかかりにくい?)ツルツルの貝が生き残る。もっともそれだけでは、北の海でなぜザラザラの貝が多いのかは説明できない。おそらく、波や潮流への適応も一因になっているように思う。

 番組の終わりの方で、視覚障害のハンディについて「できないことより、できることを考えよ」という言及があった。上掲の書評の中でも中村桂子氏が
人間は、情報の多くを視覚を通して得ている生きものだが、それに頼りすぎるきらいがある。見えないがゆえに通常見落しがちな細かな点に気づけるとしたら、これは科学者としては、たいへんな利点だ。
と述べておられるように、ある種の障害があることは必ずしも科学者としてのハンディにはならない。もちろん、そのためには大変な努力が求められるし、様々な偏見や固定観念を打ち破っていく必要があるが。

 余談だが、「いちばん好きな貝は?」という質問に対しては、かなり前提をつけられた上で、フィリピン産のホネガイを挙げられた。魚の骨への擬態のようなものかどうか分からないが、確かに奇妙な形をしている。ヴァーメイ先生にとっての「好きな貝」という意味には、形の美しさとは別に、学問的に興味がそそられる対象であるという意味が込められているように感じられた。