じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 農場の隅にころがる冬瓜(トウガン)。「冬」という名がつけられているが、本来は夏野菜。冬まで貯蔵できるためこの名がつけられたようだ。なお、冬瓜の上に伸びている葉は、たぶんウコン。


10月14日(木)

【ちょっと思ったこと】

ぐっと冷え込む

 15日の朝はぐっと冷え込み、岡山の朝6時の気温は10.4度となった、この秋初めて上着を羽織って散歩に出かけたが、歩いているうちに身体の芯まで冷えてくるほどだった。

 10月12日の日記で言及した台風23号だが、大陸からの優勢な高気圧の影響で、今のところ台湾方面に進むものと予想されている。しかし、今年は何が起こるかわからない。依然として要注意だ。なお、台風23号の東側にも、小型ながら雲の渦ができつつある。24号に成長するのだろうか。

追記]

 10月15日の岡山の最低気温は10.1度、最高気温は20.4度であり、この秋でいちばん低い記録となった。

【思ったこと】
_41014(木)[心理]血液型差別番組を考える(11)血液型コダワリ主義と血液型クリティカルシンキング

 これまでの考察で、「血液型と性格」の議論は

レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差
レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差
レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

という3つのレベルに分けて考えるべきだと主張してきた。但し、昨日も述べた理由によりここでは今しばらくレベル3に触れないで、レベル1や2について考えていくことにしたい。

 さて、レベル1やレベル2を実験や調査によって検証する上で大切なことは、
  1. 一致法や差異法の併用(一致法や差異法については、こちらに概説あり)。
  2. 上記1とも関係するが、実験的に比較する場合は、血液型以外の要因はできるだけ揃えて比較すること。
  3. 血液型というのは無作為に割り付けできる要因ではない。血液型の比較を行うことは、厳密には、実験研究ではなく観察研究である(こちらの3.6.「無作為な割付に絡む問題」を参照)。
 「血液型」テレビ番組ではしばしば、幼稚園児に血液型別に色を変えた帽子やエプロンをつけさせ、血液型別にグループに分けた上で別々のテーブルにつかせ、スイカを食べさせたり、料理を作らせたりする「実験」をやっている。しかし上記の2.や3.を考慮するならば、あんなのは全く実験には値しない。

 血液型別に違う色の帽子やエプロンをつけさせるというのは、運動会で言えば、赤組、白組、青組、というようにグループ分けして競わせるようなものである。当然、それぞれのグループ独自の特徴が出やすくなる。出てきた特徴の中から自説に一致する結果だけを抜き出せば、いくらでも後付けで都合の良い解釈ができるものだ。

 同じテーブルで園児たちにスイカを食べさせた場合も、サンプルの独立性という点で問題が生じる。グループ内の一人が種を撒き散らせば他の子どもたちもその真似をする。逆に、リーダー格の子が行儀良く食べれば他の子もその影響を受ける。もちろん中には、個々バラバラの振る舞いを見せるグループもあるだろうが、大切なのは、グループ内の一人一人はもはや独立したデータではないということだ(こちらの2.2.6.参照)。

 さて、先日の「発掘!あるある大事典2 秋の芸能人血液型スペシャル」(10月11日の日記参照)では
各血液型者男女各1000人、計8000人にQ1「相性の良い異性の血液型は?」、Q2「相性の悪い異性の血液型は」という質問を行い、「相性が合う」回答数と「合わない」という回答数の差をランキングに使った。
という調査が行われたそうだが、これも、実施方法、結果のまとめ方、解釈、いずれの面においても重大な問題点を含んでいる。人数が多ければよいなどと考えたら大間違いだ。




 昨日も述べたが、「血液型肯定論」の人たち(の一部)のいちばんの問題点は、少しでも差異が見つかると無批判にそれらを「血液型の違いがもたらした証拠」として受け入れてしまう点である。

 これに対して、「血液型否定論」、少なくとも私が唱えるところの「レベル2血液型否定論」は、決して頭ごなしに血液型と性格の関係を否定するものではない。上記の「相性調査」の結果を解釈するにあたって、まずは「血液型の影響は無い」という作業仮説から出発し、見かけ上の「差異」について、他の人為的要因や偶発的要因が関与する可能性をしらみつぶしに検討していくのである。つまり、ここでいう「否定論」とは、クリティカルシンキング:
  • 物事を一面的ではなく、多面的に見たり考えたりする
  • 問題を解決するのに、いろいろなやり方を考え、試そうとする
  • 自分の考えに固執せずに、論理的な正しさや客観性を重視する
という態度を保持しながら事実に向かおうということなのである。

 というように考えていくと、いわゆる「血液型肯定論」、「血液型否定論」はむしろ次のように呼び方を変えたほうが適切であるかもしれない。
  • 血液型コダワリ主義(※1):なんでもかんでも「血液型と関係があるかないか」に結びつけてしまう人。
  • 血液型クリティカルシンキング(※2):自分の考えに固執せず、血液型以外が関与する可能性も幅広く考慮に入れられる人。


 次回は、「血液型クリシン」の立場から、先日の「相性調査」を多面的に考察する予定。

※1追記]
当初「血液型教条主義」と呼んでみたが、少し硬すぎる表現でしっくりこないので「コダワリ主義」に改めた。呼称として何が適切かは、依然として思案中。

※2追記]
 クリティカルシンキングについての最近の考察はこちらにあり。