じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真]  岡大七不思議の1つ、「落ちない枝」。昨日掲載した「落ちない銀杏」と異なり、こちらのほうは、一部の枝に限って黄葉や落葉が遅くなる。写真左下は昨年12月10日に掲載した写真。毎年、同じ部分だけ落葉が遅れることから、偶然的要因ではなく、枝そのものに何らかの秘密が隠されているのではないかと思われる。


12月8日(水)

【思ったこと】
_41208(水)[心理]昨今の血液型論議(6)「血液型ブーム」の原因(その2)

 12月5日の続き。今回は、戦後の血液型ブームの原因について、少しだけ考えを述べたいと思う。

 前回
では戦後はどうか。また特に最近のブーム(?)は何によって起こっているのか。次回にこのあたりを述べたいとは思うが、私自身、率直なところ、納得できる説明を見い出せていない。たぶん、こういうことは、心理学者ではなく社会学者が得意とするテーマなんだろう。
と書いたように、これは、心理学が得意とするテーマではない。心理学の方法で解明できるのは、「性格とは何か」、「特定の行動傾向において血液型による違いは見られるのか」、「なぜ当たっていると思われるのか」といった、時代背景フリーな、人間行動の普遍的法則を追究することにある。いや、「普遍的法則」といっても状況や文脈に依存することは確かだが(従って、実際には「普遍法則」が現場でどのように働いているのかを研究する)、少なくとも、時代背景まで考慮に入れて行動を説明する学問ではない。じゃあ、社会学ならそれができるのかということになるが、私自身は社会学がどういう学問なのか未だにさっぱり分からないので何とも言えない。言えるのは「社会学はそれをテーマとして扱うことができる」ということだけだ(←伊○先生、赤○先生、小○先生、藤○先生ごめんなさい)。




 さて、そもそも血液型は戦後、いつ頃ブームになったのか。サトウタツヤ氏(←心理学者)の年表によれば、
  • 1970年頃から1981年頃:第1期 黎明期 カルチャーの産声あがる 血液型の超人・能見正比古の活躍
  • 1982年から1994年頃:第2期 隆盛期 占い師の参入による多彩な展開と忍びよる批判
  • 1985年から1986年頃:第3期 衰退・潜伏期 マスコミ、学者による批判の展開
  • 1990年代以降:第4期 復活期 新しい理論化により大衆の常識として再生
となっている。もっともこれは「カルチャー年表」であって、それに呼応したブームの衰退があったかどうかは定かではない。社会学であればたぶん、本の売れ行き、番組視聴率、大衆雑誌における「血液型」関連語の出現頻度、個人の手紙や日記における「血液型」への言及などから多面的にブームの実態を検証するのではないかと思うのだが、このあたりのことは勉強不足で分からない。




 ともかく戦後のある時期に「血液型ブーム」がなぜ起こったのか。10月27日の日記でも引用した栖原憲司のつぶやき試論(1999.10.31)というサイトでは
  • 高度成長、地縁・血縁共同体の崩壊、核家族化などによって、それまで気心の知れた地縁血縁関係内での社交様式しか持っていなかった大多数の日本人は、知らない人とのコミュニケーションを余儀なくされるようになった。
  • 「血液型」は本来多様であるはずの他者をたったの四つに類型化し、それぞれの行動特性と対応方法を教える。未知の、時として不気味な他者に出会っても、血液型さえ判れば既知の四つのパターンのどれかとして理解可能な存在となり、また四つの対応法のどれかをとれば相手は安心な存在になる。
  • 「血液型」は未知のコミュニケーション領域に臨んで竦んでしまった日本人に与えられた、一時しのぎの便法だった。
というような考察が行われていた(長谷川による要約引用)。



 いっぽう、草野直樹氏の『血液型性格判断のウソ・ホント』は戦後のブームを
一九三〇年代の「血液型ブーム」が帝国主義的イデオロギーを直接手助けするものだったのに比べて、七〇年代終盤からのブームは、戦後培ってきた国民的理性と思考のスポイルという間接的なサポートを行っている点が新たな特徴であると、私は考えています。
と解釈しておられる(93頁)。

 但し、これは
血液型性格判断の喧伝者たちが現代帝国主義を牛耳る意図からそれを企画したという意味ではありませんし、現代帝国主義に血液型性格判断が包摂的に従属しているということでもありません。血液型性格判断の非合理的側面が、そうした時代の諸要求に噛み合ったということです。
ということであって、「血液型」喧伝(けんでん)者が、支配者の命を受けて、大衆の社会的前進の思考をマヒさせるための非合理的思考を培っているというわけではないと断り書きされている。

 この草野氏の『血液型性格判断のウソ・ホント』には、能見データ検証や示唆に富む考察がもりだくさんに含まれているが、最終章で弁証法的唯物論まで持っていく論法には、ちょっとついて行かれないところがある。いや、草野氏の論法自体はそれで首尾一貫しており大いに敬服するのだが、「血液型」批判はクリティカルシンキングで十分ではないかというのが私の考えだ。また、クリティカルシンキングの視点に立つと、弁証法的唯物論の世界観、あるいは社会現象についての解釈のほうが、さらに深い「非合理的思考」に陥っているような気がしてならない。このあたり、次回以降に少しずつ考察をすすめていきたいと思っている。