じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
妻の実家に咲いていた大輪のボタン。蕪村の「牡丹散て...」の俳句については↓参照。 |
【ちょっと思ったこと】
“時”の詩人蕪村の「牡丹散てうち重なりぬ,,,」 連休前日の28日の夜、運転をしながらNHKラジオ第二を聴いていたら、蕪村の俳句についてたいへんためになる話題を取り上げていた。あとでネットで調べたところ、 ■04月28日(木) - 午後 09:00 〜 午後 09:30 - ラジオ第2 NHKラジオライブラリー 人間大学選 「蕪村の風景」(1)−“時”の詩人−という番組であり、もともと1996年頃?にテレビの人間大学で講義されたものをラジオ用に編集し直したものであることが分かった。 途中から聴き始めたことと、途中山間部やトンネルで聴き取れない部分があったことなどににより、聞き逃した部分も多かったとは思うが、全体として、蕪村の俳句に興味をいだかせてくれるのに十分な内容であった。 聴き始めのところではまず、蕪村の「牡丹散て 打かさなりぬ 二三片」の句の「牡丹散て」を「散って」と読むのか「散りて」と読むのかという謎が取り上げられた。中学時代、森本氏の同輩には「天才少年」が居て、国語の先生が「散りて」と発音したことについて「あれは、散ってと読むべきだ」ということを森本少年に持ちかけてきたという。「天才少年」によれば、「散りて」は過去に散った出来事、「散って」は今まさに目の前で散ったというニュアンスの違いがある。それゆえ「散って」と読まなければ臨場感が出てこないというお説であったようだ。しかし、蕪村の手紙や他の句との兼ね合いから、どうやら「散りて」が正解であったらしい。なお、ラジオで聴いていた範囲では、「天才少年」がその後どうなったのかは言及されなかった。あるいは戦死されたのだろうか。 さて、森本氏によれば、この俳句では「散て」よりもむしろ「うち重なりぬ」の「ぬ」の部分にこそ意味があるという。言うまでもなく「ぬ」は完了の意味を表すが、自然に生じた変化を意味するという点で、人工的な完了の「つ」とは異なる。蕪村の句には実際「ぬ」が多く使われる。蕪村という名前で最初に作った句にも「ぬ」が含まれていたという。ちなみに、蕪村の辞世の句は「なりにけり」で終わっている。 蕪村は生きていた頃は俳人よりも画家として有名であったという。その絵の中にも時の変化を印象づけるものもあるが、しょせん絵は、時の流れの瞬間を切り取ったものに過ぎない。その点、俳句では、わずか一文字の使い方だけで時の流れ方が大きく変わる。蕪村の句は、写実ではなく「時」で解釈するべきであるようだ。 なお、この句の最後の「二三片」は、私は昔から「にさんべん」と読むのだと思っていたが、ネット上では「ふたみひら」と書かれているものもあった。確かにそのように訓読みできないこともないが、このことについて議論があるのかどうかは不明。 ところで、蕪村の句では、牡丹の花は1片ずつパラパラと散ることになっているが、本当にそういう落ち方をするのだろうか。いっぱんに花びらというと、サザンカやソメイヨシノのようにパラパラと落ちる場合のほか、椿のように花全体がドサッと落ちる場合もある。このほか、茎に付いたまま、しだいに色あせていく花というのもある。上の写真を掲載した花を含め、牡丹の花びらがどう落ちていくのか、これを機会に観察してみたいと思っている。 |