じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
残暑が一段落したところで、エンゼルトランペットがまたたくさんの花をつけ始めた。写真左は、9月1日の日記に掲載したものと同じ株だが、花の数ははるかに多い。写真右は、一鉢100円の処分品を植えたものだが、なんとか2輪の花をつけた。花が横向きに咲いているのでいかにもトランペットという感じがする。 |
【ちょっと思ったこと】
無料英会話サークルの謎 教室の掲示板にA3サイズのポスターが無断で貼られていた。近くのホテルのロビーで無料の英会話サークルを開いている、いろんな外国人も参加しているのでどうぞおいでくださいというような内容であった。よく見ると、建物内の掲示板至る所に貼られている。しかし、どうも妙だ。 まず、ホテルのロビーのようなところで長期にわたって交流を続けるというならば、そんなに規模を拡大する必要は無いはずだ。早い話、100人もの参加希望者がやってきたらどうするのだろうか。 第二に、単なるボランティアにしては勧誘意欲がありすぎる。ポスターを何枚も貼るというのは何らかの別組織のサポートがなければできないはずだ。 第三に、学生中心のサークルであるならば、顧問教員を決めた上で、大学の施設を使って交流すればよい。わざわざ大学の外で行うというのも不明。 というようにいろいろ考えをめぐらしてみる、こういうポスターで勧誘をすることには何らかの別の意図が隠されているように思わざるをえない。ありがちなのはキリスト教系の宗教団体、あるいはカルト宗教団体の偽装サークル。もう1つの可能性は、英会話に興味のある学生を集めておいてから、高額の英会話教材を売りつけたり、有料の英会話スクールへの入校を勧誘するというもの。 しばらく監視を続けていこうと思う。 NHKラジオ英会話その後 9月29日の日記で遠山顕先生担当のラジオ英会話入門が9月で終わると書いたが、10月からは、ラジオ「英会話中級」のほうで遠山先生を初めとする同じスタッフの放送が始まった。さっそく聴いてみたが、9月までの英会話入門の構成とそんなに変わらない。「入門」と「中級」でレベルが変わったとも思えない。ま、遠山先生の放送スタイルはいつもあんな感じだから変わりようが無いとも言える。であるとすると、なんで、番組を変える必要があったのだろうか。 私にとって個人的に不便なのは、放送時間が午後2:30〜2:45、および午後7:05〜7:20となっていて、朝の放送が行われていないことだ。19時台の放送はテレビのNHKニュースを重なってしまう。かといって、こういうラジオ放送はわざわざ録音して聴くようなものではない。どうしたもんかなあ。 |
【思ったこと】 _51004(火)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(9)強化についての誤解 行動分析学で最も重要な概念の1つに「強化」があるが、Geregen(1994、翻訳書p.22-23)では行動分析学とは全く異なる形で「強化」が語られ批判されている(趣旨を変えない範囲で一部省略)。 スキナー(Skinner)、ソーンダイク(Thorndike)、バンデューラ(Bandura)のような学習理論家によれば、強化とは、ある反応パターンを選択・維持し、その他の反応パターンを「消去する」ことである。その際、選択・維持される反応パターンは「適応的」と言われ、消去される反応パターンは「非適応的」と言われる。複数の行為の中から、適切なものを指定するという意味において、仮説検証は、強化と同じ機能を果たしている。このように見てくると、仮説演繹法の第四ステップ、すなわち理論の拡張と修正の段階が、スキナー派の言う「行動形成」過程の後の段階、あるいは、より認知主義的な学習理論の言う「期待確認」過程の一段階に対応していることがわかる。いずれの場合においても、個人の心的機能が、徐々に環境に適応していくものとみなされている。このように、仮説演繹システム全体が、行動主義の様々な学習理論の中に現れている。Geregen(1994、翻訳書p.163-164)の以下の記述は、行動分析学における強化の概念とは根本的に異なるものである(要約は長谷川による)。 「強化」概念を仮説検証のようなものとして捉えれば確かにこのような自己矛盾に陥るであろう。しかし、行動分析学では「強化」はこのようには定義されていない。だいいち、上記のような概念獲得が強化の前提となるとすると、動物の行動は強化不可能になってしまう。そんなばかげたことがあるだろうか? 以上の議論は、まず9月28日の日記で述べた「knowing how」と「knowing that」の違いを明確にすることで解消できる。 第2に、何かの判断を下すということと、何かの違いについて学習するというプロセスは異なる点に留意する必要がある。チンパンジーやニホンザルはもちろん、ハトやラット動物でも一定レベルの概念学習は可能であるが、それらは、刺激般化や刺激分化の条件づけの中で少しずつ達成されていくものである。「先に概念ありき」でもなければ「先に強化ありき」でもない。 第3に、環境世界との関わりは常に蓋然的な結果しかもたらさない点にも留意する必要がある。行動分析学のもとで検討された強化スケジュールに関する豊富な事例(Ferster & Skinner, 1957)を見れば分かるように、強化というのは1回1回の個別試行において仮説検証するようなものでは到底ない。もっと確率的で、かつ行動と結果とのダイナミックな随伴関係のもとで形成されていくものである。 なお、Gergen(1999、翻訳書p.141-142)はスキナーの強化の実験について次のように記している。 実験で得られた結果そのものが、ある理論を証明したり反証したりすることはありません。しかし、実験の結果は、理論の非常に強力な具体例となります。「実証的な結果」という具体例によって、理論に生命が吹き込まれ、私たちはその理論がもつ重要性や可能性を正しく理解できるようになります。つまり、人間科学の優れた研究は、報道写真やテレビニュースでの目撃証言のような機能を果たすのです。時に私たちは、それらに感銘を受けたり、魅了されたりすることもあるでしょう。長谷川(1998)も主張しているように、1つの実験である理論が証明されるということはありえない。この点でGergenの指摘は正しいのだが、1つの実験は決して、見学者に感銘を与えたり魅了させるだけのものではない。10月1日の日記に述べた「関わりあり。ゆえに我あり」という視点から、強化によって世界がそのように構成されていくのかに目をむけるべきである。 |