じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] プロ野球の巨人は5日、来季監督に前監督の原辰徳氏が就任することを発表した。19時のNHKニュースで放送された原氏の会見は力強い期待のもてる内容であったが、最後のほうで「監督として全身全霊・全知全能をかけまして戦い抜いていきたいとお誓い申し上げます」と述べられた中の「全知全能」という表現が少々気になった。

 辞書にもあるように「全知全能」は「どんなことでもよく分かり行うことができること」(『日本語使いさばき辞典』)、「完全無欠な知能」(『角川類語新辞典』)、「何でも知っており、何でも出来ること」(『新明解』)という意味であり、通常は「全知全能の神」というように使われる。「全知全能をかけて」と言われるとドキッとしてしまう。

 こういう表現を使ったのは原氏が最初ではない。有名なエピソードとしては小渕・元首相の自由民主党総裁就任挨拶がある。

 もっとも、『新明解』では2.の意味として「その人の持っている、すべての力」という意味が記されており、用例として「全知全能を傾ける」が載っていた。であるなら、この表現は誤用ではないということになる。

 ネットを検索したところ、以下のような関連記事があった。誤用かどうかは別として、何となく違和感を持つ人は少なくないようだ。



10月5日(水)

【思ったこと】
_51005(水)[心理]社会構成主義と心理学の新しいかたち(9)科学的認識についての捉え方

 Skinner(1953)が著した『科学と人間行動』は、行動が科学研究の対象となりうること、実際にどういうアプローチで研究が可能かを明らかにしたものであった。しかし、だからと言って、伝統的な自然科学の方法論をそっくり踏襲したわけではない。特に、仮説演繹ということと、仮説構成体に関しては、他の行動主義とは本質的に異なっている。科学的発見についての行動分析学の考え方は、むしろ、社会構成主義の主張に似通ったところがある。

 しかしこのことに関するGergen(1994)による行動分析学の主張の特徴付けは必ずしも正確ではない。Gergen(1994、翻訳書21〜22頁)は
  1. ワトソンやスキナーのような急進的行動主義者は、徹底的に「科学的」たらんとし、観察可能なもののみを研究対象とし、心的状態のような仮説的領域についての陳述を回避した。...【中略】...実際、急進的行動主義者は、いかなる心的過程も特定しないけれども、人間行動を、合理的で問題解決的なものとして記述する。かくして、仮説演繹法の第二段階は、暗黙のうちに理論に組み込まれているのである。
  2. ...急進的行動主義は、徐々に、新行動主義の理論(S-O-R理論)に道を譲っていった。なぜならば、初期の論理実証主義の教義、すなわち、理論言語と現実世界の観察との正確な対応を最重視する教義には、あまりにも制約が大きいことがわかったからだ。
  3. 心理学は、「仮説的構成体」の概念を手に入れることができた。仮説的構成体とは、刺激と反応を媒介する仮説的な心的状態を指す概念である。こうして「心」について語る道が開かれ、行動主義者は、論理実証主義のメタ理論の中心である観察と論理のプロセスに機能的に対応する用語を用いることができるようになった。
として、行動主義の発展において仮説演繹法と仮説構成体が重要な役割を果たしていると主張している。このほか、昨日「強化についての誤解」ですでに引用した箇所にもGergen(1994.、翻訳書p.23)「仮説演繹システム全体が、行動主義の様々な学習理論の中に現れている」という記述がある。

 しかし、実際には、Gergen(1994.、翻訳書p.23)が“以上の議論の結論として、クラーク・ハルの『行動の原理』からの引用に優るものはないだろう”として言及しているハルの理論は、現在では歴史的遺物以外の何物でもない。また、ハルの仮説演繹法と仮説構成体に基づくアプローチ方法を最も手厳しく批判したのは、スキナーの「Are theories of learning necessary?」という論文であった(Skinner, 1950)。

 さらに、佐藤(1993)は「行動分析学における動物実験の役割-----<理論>の敗退と反復実験の勝利-----」という評論において、仮説演繹法や仮説検証を目的とした実験が敗退し、行動分析学が重視する生起条件探求型実験が勝利に終わった理由を詳細に解説している。

 長谷川(1998)は、佐藤(1976、『行動理論への招待』. 大修館書店. )の翻案として 行動分析学における科学的認識の特徴が
科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己と他者の相互の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている.
という点にあることを指摘した。

 社会構成主義では知識は社会的に構成されるという主張されてきたが、以上見てきたように、じつは行動分析学の捉え方もきわめて似通っているのである。もし違いがあるとすればそれは、行動分析学においては「知識が社会的に構成される」プロセスは行動随伴性に依拠していると考えている点、また随伴性のかなりの部分は操作可能であり、再現可能であると考えている点であろう。

 次回に続く。