じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 行きつけの花屋で買った宿根サルビア(ピンク)。外が寒いので洋蘭類と一緒に室内で育てていたら、美しい花を咲かせた。品種名は不明。


3月12日(日)

【ちょっと思ったこと】

個室受験生が遅刻した場合の対応

 3月12日は個別学力試験後期日程。これで、推薦入試、センター試験、前期試験、後期試験という主要入試のすべてが終了した。

 ところで、センター試験や個別学力試験では、障害のある受験生のために、別室で1人だけ受験させるケースがある。その受験生が遅刻、もしくは欠席した場合は、とうぜんその部屋では試験が始められないわけだが、どう対応したらよいのだろうか。
  1. 受験生が入室していなくても、空っぽの試験場で、手順通りに注意事項の説明を始める。
  2. 受験生の入室を待ってから、注意事項の説明を始める。
  3. 受験生の遅刻に合わせて、説明開始時刻、試験開始時刻(&終了時刻)を遅らせる。
 まず、絶対にダメなのが3.の対応だ。当該受験生には親切ではあるが、他の受験生より優遇したことになり公平性が保たれない。となると、2.も不適切な対応である。

 あくまで私個人の考えだが、別室で受験する人が遅刻状態にあっても、監督は、決められた時刻になったら、空っぽの部屋で注意事項の説明を開始するべきであろう。その途中で当該受験生が入室してきた場合も、説明をやり直す必要はない。要するに、大人数の試験会場で遅刻した場合と同じ扱いを受けるように配慮してこそ公平性が保たれるのである。

 以上述べたことは、あくまで仮想の事例であって、今年度の試験で実際にそういうことが起こったという話は聞いていない。念のため。

【思ったこと】
_60312(日)[心理]脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間(2)

 3月9日の日記の続き。今回からしばらく、昨年12月に刊行された

●上野千鶴子編『脱アイデンティティ』ISBN 4326653086

について感想を述べていくことにしたい。なお、前回の日記で、この本は“社会学の立場から、「アイデンティティは賞味期限切れの概念ではないか」を説いたものである。 ”と書いたが、執筆者の中には社会学者ばかりでなく、精神科医や「国文」学者も含まれている。但し、この連載では、全体のテーマと連関させる必要上、上野氏の序章と終章、および「第二章 物語アイデンティティを越えて?」(浅野智彦氏)に限って、感想を述べるにとどめたい。

 さて、序章で上野氏は、「アイデンティティ」と「核家族」という2つの用語を挙げて、「核家族」同様、「アイデンティティ」という概念も、耐用年数が切れるにちがいないと述べておられる。

 「アイデンティティ」という言葉は、Googleで検索すると202万件もヒットするほどに数多く使われているが、改めてその起源や使われ方(誰がどういう目的で使っているか、どういう有用性があるか、何を「説明」するのかそれを使うことで何が明らかとなり何が見えにくくなるのか、...)について指摘されてみると、自分自身の考えが及ばなかった点がたくさんあったことに気づく。

 これは社会一般で「アイデンティティ」が、あまりにも当たり前のように使われてきたことにも起因している。この日記では、このところ頻繁に冬のソナタの話題をとりあげているが、あのドラマは、チュンサンと、10年後に突然現れたイ・ミニョンの同一性が確認され、初恋が成就されることでハッピーエンドになるという筋書きになっている。あのドラマを観て多くの人が感動したのは、やはりに「アイデンティティを大切にする」という暗黙の前提があったからに違いない。しかし、第6話のあたりのイ・ミニョンさんがあのままの状態を保ち続け、チュンサンとの同一性は確認されないままでユジンと結婚したほうが遙かにハッピーエンドではなかったか、という見方だってできるはずだ。しかし、ユジンは、チュンサンと同一でないイ・ミニョンを愛することはできないなどときっぱり言う...。

 もう1つ、高齢化社会で今後ますます考えなければならないのが、認知症における同一性の問題だろう。

 ということで、時間が無くなってしまった。序章についての感想はけっきょく次回以降に。