じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
昨日に引き続き、岡山・後楽園の桜。今回は岡山城(烏城)を背景に入れた写真。ちなみに今の天守閣は戦後に建てられたもの。もとの天守閣の写真はこちらにあり。1945年6月29日、米空軍による岡山大空襲により焼失した。
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【思ったこと】 _60415(土)[一般]タイムマシンの論理 先週の日曜洋画劇場(リンク先は暫定)で放送された「タイムマシン」をHDDからDVDディスクに移し替えようと、CM部分を削ったりしているうちに、ニューヨーク図書館のヴォックスが登場したあたりで、だいぶ前に500円均一で買った中古VHS版と同じ映画であることに気づいた。 一度観た映画のシーンというのは滅多なことでは忘れないはずなんだが、今回は
以下はネタバレあり。ご注意 さて、この作品だが、まず、以前VHS版で観た時に印象に残ったのは、恋人を失ったアレックが最終的に、マーラという別の女性と未来の世界で生きていこうとした点だ。冬のソナタと違って、変えられない過去はきっぱりと諦め、新たに見つけた時空の世界で未来を変えるために前向きに生きようという姿勢は、1つの生き方としてアリではないかと思う。もっとも私の年になると、万が一、妻に先立たれたからといって、今さら未来を前向きに生きようとは思わないけれど...。 ところで、タイムマシンでなぜ過去を変えることができないのか。この映画で示された解答は、まことに明快であった。 タイムマシンは、エマが死んだことによって作られた機械であった(=エマが死んでいなければ、アレックはそういう機械を作ろうという気にはならなかった)。よって、タイムマシンはエマの死を前提として作られた機械であるから、エマの死が無ければ存在しえない。よって、その機械を使ってエマの死を取り消すことはできない。この論理を一般化すると、要するに、 ●過去を変えようという動機のもとに作られたタイムマシンによって過去を変えることはできない。なぜなら、そういうタイムマシンは、変えようとしている過去を前提として存在しているから。 という論理が成り立つ。タイムマシンについての科学技術がどうあれ、この論理を打ち破るのはなかなか難しいのではないかと思う。なぜなら、機械というのは、人間の行動があって初めて作られるものであるからだ。 もっとも、過去を変えることには全く興味を持たない科学者が、純粋な学問的興味だけに基づいてタイムマシンを作るという可能性もある。その科学者が作ったタイムマシンに乗って、別の人が過去を変える旅に出るというなら論理的にはあり得るだろう。 それはそれとして、タイムマシンの矛盾はもっと別のところにあるように思う。この映画でもそうだし、少し前に人気があった「バック・トゥ・ザ・フューチャーの場合もそうだが、タイムマシンというのは、何百年、何万年もの旅をしているのに何で、地球上の同じ場所に戻れるのだろうか。 そもそも我々が立っている地球上の一点というのは、「絶対的な座標」の上で固定された点というわけではない。地球自身が自転し、その地球は太陽の周りを公転し、さらに太陽系自体が銀河系の中で移動している。従って、時空を超越するようなタイムマシンが、何万年も後(もしくは前)の同一点をどうやって同定できるのかは甚だ疑問である。 もっと現実に起こりうる話としては、地球の自転速度がだんだんと遅くなるという現象がある。 先日のエジプト皆既日食の時に考えたのだが、皆既日食が何千年前(後)の何月何日何時何分何秒に起こったか(起こるか)ということは、地球と月の公転軌道、速度が変わらない限りは計算できる(※)。しかし、渡部潤一先生から直接伺った話だが、その皆既日食が地球上のどこで起こったかということは「デルタt」が定まらないと推定(予測)できないのだという。例えば4500年前のエジプトの上を皆既日食帯が通ったかどうかは、天文学的には推測できない。そのころは今より地球の自転が速く、日食帯が地球上のどのあたりにかかったのかが確定できないからである。 ※というようなことを考えてみるに、当初、地上の物体として作られるタイムマシンは、その時点における地球の重力、自転の遠心力などの影響を受けるが、何万年前(後)に至る地球上の重力や遠心力の変化を計算することはできないので同じ場所に留まることはできないというのが、物理学の素人である私の勝手な理屈。 |