じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
この季節に大学構内各所で見かける白い花。これって何の木でしたっけ?
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【ちょっと思ったこと】
交通博物館閉館 東京神田の交通博物館が5月14日をもって閉館された。閉館後は大宮へ移転し、2007年10月14日に鉄道博物館として開館する予定であるという。 ニュースでも伝えられていたように、この博物館には70年の歴史がある。私自身も子どもの時に一度だけ訪れたことがあるが、模型の電車を実際に動かしてみたことなど、鮮明な記憶が残っている。あそこを訪れた時のちょっとした体験がきっかけで鉄道マニアになった人も少なくないのではないかと思う。 |
【思ったこと】 _60514(土)[一般]禁煙できないのは病気か 5月15日付けの朝日新聞オピニオン欄に ●禁煙できないのは「病気」? という見出しの論争記事があった。趣旨は、禁煙治療に4月から医療保険が使えるようになったことに関連して、ニコチン依存症は治療すべき「病気」なのかについて、賛成論と反対論を並べて紹介するというもの。今回は
4月6日の日記や4月12日の日記にも記したように、私自身は、公共の場や禁煙エリアでの喫煙行為に対しては毅然とした態度で臨むことにしている。そのこともあって私個人は、大島氏のご意見にはほぼ100%賛成、いっぽう、小谷野氏のご意見については、5%くらいは納得できる部分もあるが、その一方で、論点のすり替えや屁理屈にすぎないと感じる部分が多かった。ふだん筋道を立てて議論を展開し人格的にも立派な方が、禁煙論や分煙論の話題になると途端に屁理屈を並べるようになる、というのは私の大学の愛煙家の教員についても言えることで、まことに不思議な現象である。 まず、小谷野氏のご意見の中で論点のすり替えであると思われる部分は
小谷野氏はまた、首都圏の私鉄がプラットホームから喫煙コーナーをすべて撤去し、全面禁煙にしたことを挙げておられる。小谷野氏によれば、
もちろん中には、スペースに十分なゆとりのあるプラットホームもあるかもしれない。そういう場所に、外気から遮断された喫煙室を作ることには反対しないが、少なくともその設置・維持費用は利用者のみの負担でまかなわれるべきである。そういう経費が一般利用者の運賃に上乗せされることは断じて許されない。 さて、本題の ●禁煙できないのは「病気」? という議論だが、大島明氏が冒頭に書いておられる 禁煙治療が4月から公的医療保険の給付対象になったのは、厚生労働省が今年2月、「ニコチン依存症」を「病気」と認定したからだ。喫煙をやめたいのに、やめられないのは病気だと自覚して、治療を受けたい人が対象になる。医師が患者を診るのは当たり前だ。喫煙をやめたいと思わない人に、強引にやめさせようとするものではない。やめたくない人は、自分が病気という「病識」がないだけだ。吸いたい人は吸えばいいが、他人にたばこの煙を吸わせる「受動喫煙」の害を与えてはならない。という論理はまことに明快で、こういう範囲で「病気」を認定して治療を行うことには疑問を差し挟む余地はない。 また、同じく 喫煙による健康被害で過剰にかかる医療費は、1兆3千億円に達している。禁煙治療は当初、費用はかかるが、禁煙が定着すれば医療費を減らせるはずだ。という部分も納得できる。但し、非喫煙者の立場から言えば、医療保険にしても、一般の生命保険にしても、非喫煙者と喫煙者の保険料が同額であるというのは不公平きわまりない。タバコを1箱1000円に増税した上で、その税の目的を、受動喫煙防止策、禁煙キャンペーン展開、禁煙治療、喫煙健康被害関連の医療費、医療関係者養成などに限定するというのも一案かもしれない。 喫煙をやめたいと思わない人が、他者に迷惑を及ぼさない場所で適度にタバコを吸うことについては、私自身は特に文句を言うつもりはない。但し、例えば役所や会社や大学の職員が勤務時間中に席を離れて喫煙所でタバコを吸うということは、その時間分、職務が停滞するということを意味する。私なども時たま、電話で問い合わせをすると「担当者がいま席を離れていて」などと言われることがあるが、もしその担当者が喫煙のために席を離れていたとしたらこれは明らかに職務怠慢となる。結果的にそういう職員が昇給停止や配置換えなどの不利益措置を被っても文句は言えまい。要するに、喫煙をやめるかやめないかということは、本人の自由意志だけに委ねられるものではない。職務の円滑な遂行上、禁煙を求めらるような外圧がかかってくるのはやむを得ないことであると思う。もっとも、真摯に職務を遂行しようと考える職員は、外圧を感じなくても喫煙をやめようと自分から努力されるはずで、そのことについての公的サポートを充実させることには意義があると思う。 |