じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
7月上旬に撮影した蛾のコレクション。図鑑で調べた限りでは、上から、ウンモンスズメ、カノコガ、キシタバではないかと思われる。一番下の「キシタバ」にはいろいろな種類があり、正確な種名は不明。
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【思ったこと】 _60712(水)[教育]高等教育セミナー(7)授業評価アンケートの処遇への反映 まず、 ●大規模・私立大における教職員評価制度の導入経緯と成果 の続きから。 この大学の某学部では、学生による授業評価平均値が学部内で上位5%までに含まれていることを「顕著な教育業績」の該当項目に挙げている。但し、3年以上連続して該当した場合は1年あけることとし、下位から繰り上げることにしているという。この「繰り上げ制度」はおそらく、「上位」の教員が固定され、「下位」から「上位」への向上努力が評価されにくくなる弊害を防ぐためにあるものと思う。1年あけた後に再び「ランクイン」するためにはさらに評価点を上げる必要が出てくるだろうから、これはかなりの競争になるものと思われる。但し、そのことが授業のどういう部分の改善に繋がっているのかについて、もう少し質的検討を進める必要があるのではないかと思った。 なお、私が理解した範囲では、この種の細かい制度は、それぞれの学部で独立して検討されているようだ。れぞれの学部の授業スタイルは、例えば、リベラルアーツかポリテクかによっても異なるし、専門領域の研究方法の違いも反映するだろう。いずれにせよ、総合大学において、数値主体の評価法をあらゆる学部に一律に適用することは無理があるものと思われる。 さて、今回のセミナーで私が特に知りたかったのは、学生による授業評価の結果を教員個人評価にどのように反映させているのかということであった。すでに述べたことをまとめると、だいたい、
7月5日の日記に記したように、私個人は、学生による授業評価アンケートも、個人評価も、基本的には教員個人の健康診断のようなものだと考えている。つまり、健康診断で異状があった時には精密な診断を受けるべきであるのと同様、アンケート結果や個人評価で低い数値が出た時には、第三者を交えてその原因を詳細に検討し、必要に応じて改善をはかる必要がある。その一方、数値が一定レベル以上を保っていた場合は、小数点刻みの細かい変動を気にするよりは、もっと質的な側面に注意を向けたほうが建設的であると考えている。 いくら健康が大切だといっても、大学教員を3カ月に一度、人間ドックに送り込んで、胃カメラやら、多数回の血液検査、尿検査、多数回放射線を浴びせるレントゲン検査などを義務づけるようなことになれば、検査を受けることのストレスで逆に病気になってしまう人も出てくるに違いない。また、そういう検査は、結果的に健康であった人には無意味かつ(放射線を浴びたというだけでも)有害ということになる。 このアナロジーを教員の個人評価に当てはめれば、本来の教育・研究に費やす時間を大幅に削って、個人評価項目の入力作業、自己評価報告書作成、さらには大学全体の認証評価報告書作成や関連データの整理に追われるというのは決して建設的とは言えない。健康保持の基本は、規則的に生活し、身体を動かしたりバランスよい食事をとったりすることにあるのであって、健康診断の受診回数で健康が増進されるわけでは決してない。個人評価の場合も同様で、教育・研究に支障が出るほどの作業を強いることがあってはならないと思う。 このほか、今回気づいた点であるが、ひとくちに「学生による授業評価アンケート」といっても、総合評価に反映されるファクターは大学によってずいぶん異なっている模様である。例えば、大学によっては、授業中の私語は深刻な授業妨害になっている。それゆえ、私語を適切に排除できる教員の授業評価結果は高くなる。しかし、私の大学、少なくとも私の授業に関しては、もともと私語は殆ど無く、学期初めに稀にざわついていた時にも一言「私語は授業妨害だ」と叫ぶだけであっさりと片付き、期末まで静粛を保つことができる。要するに、学生による授業評価の結果が高いか低いかは、それぞれの大学の校風や、学生の受講態度によっても大きく変わってくる可能性がある。 最後に、「人事制度」や「処遇への反映」というのは、大学教育の最終目的では決してない、あくまで大学教育の改善と質の保証のための手段に過ぎない、という点を改めて強調しておきたい。たまに、 ●学生による授業評価アンケートの目的はあくまで「個々の授業改善」であって、処遇に反映することを目的とはしていない。 という主張を耳にするが、厳密に言えばこれは2つの点で誤解を招いている。 まず「個々の授業改善」であるが、これは1つの達成目標ではあっても、最終目的では決してない。最終目的はあくまで、大学教育全体の改善と質の保証なのであって、そのために必要な手段として「個々の授業改善」が求められているのである。 第二に「処遇への反映を目的とすべきではない」という主張だが、処遇もまた、大学教育全体の改善と質の保証のための手段に過ぎないのである。従って、本来の検討は、 ●大学教育の改善と質の保証のための手段としては、どのような人事制度、処遇が有効か から出発しなければならない。そして、その有効性が確認できた後に、 ●学生による授業評価アンケート、あるいは教員個人評価は、どのような形で人事制度や処遇に反映させることが妥当か という検討が行われるべきであろう。これらの議論が不十分であるために、最初に処遇ありき、あるいは、処遇に反映させるのは絶対的に悪いという、異なる前提に基づいた主張が混在し、無駄な時間を費やす羽目になるのだ。 極端な想定になるが、例えば、種々の検討の結果 ●大学教育の質を高めるためには、優秀教員の賞与を今の2倍にすることが必要 という結論が得られた場合には、まずそのための財源を確保するべきであろう。賞与を1%アップする財源しか確保できないのなら、そこから先の議論は無駄になる。 ま、このあたりはいろいろ反論もあろうが、私のようなプラグマチックな立場から言えば、1つのシステムの存在価値は、あくまでそれがもたらす有効性の度合いによって決まるということだ。いくら理念的、形式的に妥当であっても、実効性の無いシステムに時間やお金をつぎこむべきではない。 |