じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
7月26日朝の朝日。岡山南部の週間天気予報は「曇りがち」ながらも「晴れマーク」が入っており、梅雨明けは間近いものと思われる。
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【思ったこと】 _60725(火)[心理]善と悪はどこが違うか 10日ほど前の日曜日、起床時にNHK「こころの時代」で『歎異抄』第三条を解説しているのをチラッと視た。私個人は宗教には全く関心が無く、歎異抄の論評などできる器ではないが、番組の中で提示されたいくつかのフレーズの中には、私なりに別の解釈ができるという部分があった。念のため7月23日午後の再放送をDVDに録画して、気になっていた箇所を再生してみた。 さて、第三条は 善人なほもつて(なおもて)往生をとぐ、いはんや悪人をや。...で始まる重要な教えを説いたものであり、中学・高校の教科書でもしばしば紹介されている。しかし、その意味を正しく理解できている人は少ない。番組講師の先生が、大学の授業や地域の公開講座などでこの話をすると必ず出てくる質問が、「どんな悪いことをしても構わないんですかっ!」だそうだ。 しかし、ここでいう「善人」、「悪人」という概念は、現代社会一般で考えられている「善」や「悪」とは異なる。ここでいう、善人というのは、要するに、自力作善の人(→自分の力で善行を積み上げて仏に成ろうと努力して、なんとかできると信じている人)のことを言う。そうではない人が「悪人」なのであって、極悪非道を尽くした人という意味ではない、というように理解した。 自力作善とまでは至らないが、番組で紹介された、
いっぽう「悪いこと」をしている時は、自分自身、常に自分の行動を点検する、へりくだった状態にある。また、そういう行動は外部から強化されているため、より「まとも」に見えるという次第だ。 そういうことを踏まえた上で、では、そもそも「善」と「悪」はどうやって区別できるのかという根本疑問が生じてくるわけだが、私自身の中では、これはすでに結論が出ている。すなわち、
例えば、「人を殺すのは悪いことか?」という疑問は、一個人だけの世界で考えていても決して解決するものではない。「人を殺す」行動は、周囲に影響を及ぼす行動であり、影響を受けた人の幸せが奪われる。「殺し合い」が正当化されれば、自分自身にも危害が及ぶようになる。だから、その社会において「悪いこと」として処罰の対象になるのである。 ところが、判断者の依拠する集団のサイズが「人類全体」なのか「国単位」なのかによって、同じ「殺人」でも判断が分かれる場合が出てくる。戦争で敵国の兵士を殺すのは、「人類全体」に依拠すればやっぱり「悪」であるが、「国単位」であるなら、逆に、祖国を守った英雄的な行為として称えられることさえある。 では、強力な細菌兵器を開発して人類全体を皆殺しにすることは悪いことか。確かに、「家族単位」、「国単位」、「人類全体」いずれのサイズで判断しても、これは「悪い」行為である。しかし、地球温暖化で苦しむホッキョクグマの立場から見れば、人類滅亡をもたらす行為は「善」である。いつぞや、何かのアニメで観たことがあるが、地球生物全体にとって最も危険かつ有害な生物は何かと言えば、やっぱり、人類と答えるしかないように思う。 であるからして、最初から何が善で何が悪かと決め付けることは絶対にできない。幸いなことに、科学は、ある行動がどの範囲にどれくらいのスパンで影響を及ぼすかということを予測・制御する力を持っている。それを活用しつつ、(人類全体を最優先にしつつ)それぞれの集団サイズで、種々の行動がもたらす結果を適宜評価しコントロールしていくということしか、「悪人」たる我々が生き延びる術は無い、と私は考える。 |