じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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北九州市・響灘緑地・グリーンパークの熱帯生態園で見かけたウォータードラゴン(5月3日撮影)。イグアナだと思っていたが、あとで説明を見て違う種類であることを知った。そう言えば、この場所で撮影したことのあるグリーンイグアナ(写真右)とは、かなり違った顔立ちをしている。 |
【思ったこと】 _70511(金)[日記]じぶん更新日記十周年(6)なぜWeb日記を書き続けるのか(2)4通りの方法の利用可能性 昨日の日記で、 ●長期間にわたってWeb日記を書き続けているのはなぜか? について、少なくとも以下の4通りの方法があると述べた。
そして、これら4通りのうちどの方法が有意義かということは、分析の結果を誰が何のために利用するのかによって変わってくると指摘した。 以上に挙げた4通りの方法や分析結果の利用価値についての議論は、Web日記執筆にとどまるものではない。例えば、
このうち、1.の【性格分析】からは、建設的な情報は殆ど引き出せないであろうと述べた。但し、利用目的が変われば有用であることもありうる。例えば、努力してもそう簡単には変わらない適性というものは確かにある。その仕事を継続できるか、という不安を抱えている人にとっては、1.の分析の結果は、適性をみきわめる情報として有用になるかもしれない。例えば、長年、営業社員として活躍している人と、途中で辞めてしまった人の性格の違いを分析することは、営業社員になるかどうか迷っている人にとって、適性を知る上での有益な情報になるとは思う。 次に2.の【聞き取り調査】であるが、インタビューではしばしば、「その行動を始めたきっかけは?」という質問から始まることが多いように思う。 しかし、「きっかけ」と「継続の理由」は全く別。「なぜ継続しているのか?」の原因が、「きっかけ」によって変わることはまずない、と言ってよいかと思う。 例えば著名なピアニストに「ピアノを始めたきっかけは?」と訊いたとする。返ってくる答えとしては、「親の意向でピアノ教室に通うようになった」、「家にピアノがあった」、「ある時、たまたまピアノ演奏会に誘われて感動した」、「ある時、ラジオでたまたまモーツァルトの曲を聴いて、自分も弾けたらいいなあと思った」など多種多様であると思うが、どの1つをとっても、長期間継続の理由にはならない。 そういえば、この「じぶん更新日記」なども、ヘールボップ彗星が出現し、その時に撮影した素人写真を「彗星日記」という形で公開しようと思い立ったことが、そもそものきっかけの1つになっている。しかし当の彗星自体はすでに天王星よりもはるか遠くにあって、次に戻ってくるのは西暦4380年頃になるであろうと言われている。きっかけが彗星であっても、日記執筆の継続がその彗星によって支えられているわけでは決してない。 もう1つ、当人が「きっかけになった」と表明しも、それが本当のきっかけであったという証拠はどこにも無い点に留意する必要がある。「きっかけ」というのは、何かの現象が生じるための条件の1つであって、当人が言語化でき、意味づけできるいちばん古い事象が選ばれているだけのことにすぎない。本質的な原因をさぐる上では対して重要ではないと思う。但し、対象によっては、「運命的な出会い」として美化されたり、第三者にもロマンを感じさせたりすることもある。事後に美化することは、継続を支える重要な要因になるかもしれない。例えば、道でたまたまぶつかったことがきっかけで結婚した場合、「それは単なる偶然で何の意味も持たない」とするよりは、「あの時ぶつかったのは、神様のお導きによる運命的な出会いであった」と美化したほうが、夫婦生活は円満に継続に違いない。 2.の【聞き取り調査】では「それを続けていて、どういう良いことがありましたか?」と訊くことも多い。この質問をしても、長期間継続の原因が解明できるとは限らないが、じつはこの質問&回答こそ、第三者にとって最も有益な情報になりうるのである。 というのは、ある人がある行動を長期間続けるということ自体は、他者に迷惑を及ぼさない限りはどうでも良いことであって、我が身の関心事ではない。長期間継続しようが、途中で止めてしまおうが、知ったことではないのだ。 要するに、聞き手にとって一番知りたいのは、「それを続けていると、どういう良い結果がえら得るのか」という「お得な情報」なのだ。それがあって初めて、「そんなら自分でも始めてみようか」という気になる。始めてみてしばらく経った後で、「長期間継続させるにはどうすればよいか」に関心が向くようになるのである。 「お得な情報」というのは必ずしも一般性・普遍性を必要としない。「山登りをしていてこんな良いことがあった」と語る人は、あくまで自分の体験として語ればよいのであって、「どんな人でも、山登りをすればこういう良いことがある」などという普遍性を主張する必要はないし、その証拠を示す義務もない。このあたりの議論は、セラピーの有効性の議論にも関連しそうだ。 次回に続く。 |